寺の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:07 UTC 版)
その後浄瑠璃寺は建造物が増えてゆく。久安2年1146年食堂と釜屋を建設、6年に摂政藤原忠通の子の覚継(のちの恵心)が寺を整備する際に池を築造、平治元年1159年十万堂を棟上げする。現存する三重塔は治承2年1178年に京都の一条大宮から移築され、同年鐘楼を造立。建仁3年1203年には楼門・経蔵・閼伽井を上棟した。 『浄瑠璃寺流記事』によれば、南北朝時代の正平4年/貞和5年(1349年)ごろには、かつての後醍醐天皇の腹心であり、この時期は後醍醐の子の後村上天皇の護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)を務めていた南朝高僧の文観房弘真が拠点としていた。同年4月29日および5月9日には、文観は舎利宝珠などの霊宝を浄瑠璃寺に寄進している。 中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。
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