寺の焼失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 06:10 UTC 版)
慶長10年5月から就任した第9代住職・剛外は、東福寺における境内の北にある龍眠庵の住職も兼任していたが、慶長18年(1613年)6月10日、大火が起こり七堂伽藍をはじめ、文言、宝物などを全てを焼失。以後、約42年間に渡り住職も不在となり、伊集院忠国以下、伊集院氏代々の城主の墓も、寺が荒れた頃に円福寺へ移された。その後は、報恩寺住職・咲翁が看司という役職で正保2年(1645年)から承応2年(1653年)まで兼任。明暦元年(1655年)、多宝寺の住職・仁室により伽藍が復興され、仁室が第13代住職に任命され再興。報恩寺の住職による協力も受け、延宝には本格的な再興を遂げる。正徳2年(1712年)、第14代住職・達道守賢は、2度にわたり寺のために鹿児島高100石を購入するが認可されず、石高は預りになる。第17代住職・関宗玄察の代になると、預り分の100石に加え、宝暦9年(1760年)7月には新たに100石寄進され、焼失以前に730石あった寺領は、233石まで戻った。
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