密輸稼業とコットン・クラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:02 UTC 版)
「オウニー・マドゥン」の記事における「密輸稼業とコットン・クラブ」の解説
1923年特赦で出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ(ローレンス・フェイ)のタクシー会社の用心棒となり、タクシー組合のスト破りやカナダ産ラム酒の密輸のガードマンを引き受けた。 1923年12月2日、仲間のジョージ・ディーン・ディマンジら3人でリカーショップに強盗に押し入りウイスキーを強奪したが、使ったキャデラックが特定され捕まった(証拠不在で放免)。 1924年、ディマンジと共にフェニックス醸造所を買収し、自らの名前を冠したマドンズ No.1というブランドの酒を生産、スピークイージー(闇酒場)やナイトクラブに持ち込んで儲けた。その後ビル・ドワイヤーの密輸オペレーションに加わり、フランク・コステロと知り合った。 ハーレム142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」をジャック・ジョンソン (ボクサー)から買取り、コットン・クラブとして再オープンした。人気音楽家のデューク・エリントンを友人のブー・ブー・ホフに頼みフィラデルフィアからニューヨークに呼び寄せて契約を結ばせた他、多くの人気ジャズメンや歌手を引き抜き、客にヤミ酒を提供して繁盛した。コットン・クラブは1920年代のニューヨークのナイトライフのメッカとなった。ドアマンのチーフはディマンジが務め、店の用心棒にダッチ・シュルツやレッグス・ダイアモンド、"マッド・ドッグ"・コールなど若手ギャングを雇った。のちシュルツが自前の密輸組織を率いてハーレムに進出するとこれに組し、ワキシー・ゴードンやレッグス・ダイアモンドら同業ライバルとハーレムの覇権を争った。 酒場経営で成功すると事業を多角化し、ランドリー業や石炭配送業などを立ち上げた。また、ブロードウェイで劇場の共同オーナーになった。当時ダンサーだったジョージ・ラフトや駆け出し女優のメイ・ウエストの面倒を見た(ウエストとは一説に愛人関係にあった)。闇酒場の経営は、タマニーホールのジミー・ハインズの後ろ盾を得て警察の摘発から免れた。マドゥンと知り合いなら市長と知り合いなのと同じぐらいだと言われるまでになった。同じ頃ラッキー・ルチアーノやその仲間と知り合った。1929年5月、全米ギャングの大集会、アトランティック会議に参加した。
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