密輸抗争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:17 UTC 版)
「ヴィンセント・テラノヴァ」の記事における「密輸抗争と死」の解説
禁酒法施行後、縁戚のヴィンセント・サレミやナポリ系の"ジョー・ペッポ"ヴィセルティとハーレム向けのアルコール密売を始め、財を築いた。カラブリア系ギャングのフランキー・イェールの酒場ハーヴァード・インの経営に参画して、カモッラ戦争以来となるブルックリン進出を図った。ダイアモンドの指輪を付け、ピンストライプの高価なスーツとシルクのシャツを着こなした。ハーレムタイガーの異名を得て、いち早く密輸成金の仲間入りをした。 1920年3月、ジュゼッペ・モレロが出所し、一家のボスに返り咲いた。1921年夏頃、モレロ一家が勢いを取り戻すのを恐れたサルヴァトーレ・ダキーラがモレロ一家全員に死の宣告を出したとされ、抗争が勃発した。1921年10月、ヴィンセントの密輸仲間ジョー・ペッポが殺された。 1922年5月8日朝、ハーレム116丁目の自宅近くで、走行中の車からショットガンで銃撃された。持っていた32口径リボルバーで撃ち返したが、9発の兆弾を浴びて死亡した。リボルバーは空になっていた。 モレロ派のジョー・マッセリアに密輸仲間のサルヴァトーレ・マウーロを殺されたウンベルト・ヴァレンティの仕返しとされる。ニコラ・ジェンタイルによれば、ヴァレンティは元々ダキーラ配下で、ダキーラと喧嘩してモレロらと同じく死の標的にされていたが、和解してモレロ派を攻撃していた。ヴィンセント暗殺の3か月後にヴァレンティを謀殺したマッセリアが一家を継ぎ、ジュゼッペ・モレロがアドバイザーとなった。
※この「密輸抗争と死」の解説は、「ヴィンセント・テラノヴァ」の解説の一部です。
「密輸抗争と死」を含む「ヴィンセント・テラノヴァ」の記事については、「ヴィンセント・テラノヴァ」の概要を参照ください。
- 密輸抗争と死のページへのリンク