容斎の教育とは? わかりやすく解説

容斎の教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 14:36 UTC 版)

渡辺省亭」の記事における「容斎の教育」の解説

容斎の内弟子として入門した省亭であるが、その指導一風変わっており、かつ極めて厳しかった入門してから3年間は絵筆握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆、または趙孟頫の手本でひたすら習字させられた。楷書王羲之、かなは藤原俊成元にしたものであったという。のちの省亭作品見られる切れ味良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。ところが3年経つと、今度反対に放任主義を取る。容斎は粉本自由に使わせながらも、それを元にした作品制作師風墨守厳しく戒め弟子たち自己の画風探求確立強く求めた弟子時代逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅帰ってくると、町で見かけ人物の着物や柄・ひだの様子がどうだった質問し淀みなく答えない大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立った回想している。こうした厳し指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物ではなく、是真に倣って花鳥画新機軸開いていく。なお同門には、松本楓湖梶田半古鈴木華邨三島蕉窓らがいる。 容斎のもとで4年ほど学んだが、明治2年1969年7月来日したエディンバラ公アルフレッド公に贈呈する画帖制作門弟として参加した後、容斎から破門された(理由不明)。画家として自立せざるを得なくなったが、これが修行時代だと覚悟決め安直に収入良い仕事にはつかず、浅草観音堂に頼まれもしない絵を描き通ったという。明治5年1872年)、渡辺家養嗣子となり、吉川家離れ渡辺姓を継ぐ。表札には、「二代目渡辺良助」と掲げたという。師の元を去って3年余り経った後、容斎から呼び戻される旧幕大久保一翁東京府知事拝命した際の依頼品《心の草紙》の冒頭中盤終わり除いた部分任され、師を慕い続けていた省亭の喜び大きかった

※この「容斎の教育」の解説は、「渡辺省亭」の解説の一部です。
「容斎の教育」を含む「渡辺省亭」の記事については、「渡辺省亭」の概要を参照ください。

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