安全な電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:21 UTC 版)
ところが、名鉄の社内から、この企画に反対する意見があった。 この当時、名鉄では踏切事故が激増していた。1958年12月24日に名古屋本線で特急に使用されていた3850系が踏切でオート三輪と衝突した際には、オート三輪の積荷が可燃物のシンナーであったために炎上して車両は全焼、乗務員・乗客にも死傷者が出ていた。翌1959年にも、10月1日・10月9日・11月20日・11月29日・12月8日と踏切事故が多発しており、乗務員の殉職もあった。こうした事情から、「乗客を危険にさらすわけにはいかない」という理由で、列車の運転を統括する運転部の部長が車両部に対して抗議を申し入れたのである。 しかし、土川はその抗議を受けても、展望車の開発を中止することはしなかったため、車両部では「衝突しても安全な電車」を作らなければならなくなった。安全性の確保を検討するうち、沿線企業の萱場工業からダンパーを先頭部分に設置するという提案があった。計算した結果、オイルダンパーを前面に2本設置することによって、車体を守れるという結果が出たため、衝突の状態や吸収力などのシミュレーションが行われた。 そのほか、運転台へ乗務員がどう出入りするか、運転台からの見通しがどうかなどが検証されたほか、監督官庁にも指導を仰ぎ、車両設計において例外的な認可の箇所を減らすべく検討が行われた。日本では前例がない車両構造のため、監督官庁も扱いに困ったといわれている。 1960年夏には役員会で新造計画が決定した。これを受けて、白井は正式に車両部へ異動となり、新型展望車の開発に専念できるようになった。
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