宇治大納言とは? わかりやすく解説

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源隆国

(宇治大納言 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/01 13:40 UTC 版)

 
源隆国
源隆国/『前賢故実』より
時代 平安時代後期
生誕 寛弘元年(1004年
死没 承保4年7月9日1077年7月31日
改名 宗国⇒隆国
別名 宇治大納言
官位 正二位権大納言
主君 三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
氏族 醍醐源氏高明流
父母 父:源俊賢、母:藤原忠君の娘
兄弟 顕基、隆国、隆縁、成尋阿闍梨母(藤原貞叙室)
源経頼の娘
隆俊隆綱俊明、隆基、国俊、公綱、定賢、隆覚、覚猷、長俊、隆信、藤原俊家室、橘俊綱
特記
事項
自前[権]中納言任[権]大納言例
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源 隆国(みなもと の たかくに)は、平安時代後期の公卿。初名は宗国醍醐源氏権大納言源俊賢の子。官位正二位権大納言宇治大納言と称された。

経歴

三条朝長和3年(1013年従五位下叙爵し、翌長和4年(1014年侍従任官する。左兵衛佐を経て、寛仁2年(1018年)従五位上・右近衛少将に叙任されると、寛仁5年(1021年正五位下治安3年(1023年従四位下・左近衛少将、万寿2年(1025年)右近衛権中将、万寿5年(1028年)従四位上、長元2年(1029年正四位下蔵人頭(頭中将)と後一条朝の前期から中期にかけて近衛次将を務めながら順調に昇進した。

長元7年(1034年従三位参議に叙任され公卿に列した。長元8年(1035年)母(藤原忠君の娘)が没すると、長元9年(1036年)後一条天皇の崩御に伴って、兄の権中納言源顕基出家している。隆国は議政官を務める傍らで、右兵衛督大蔵卿を兼帯し、この間の長元9年(1036年)正三位長暦元年(1037年従二位に叙せられている。

後朱雀朝末の長久4年(1043年権中納言に昇進するが、引き続き右兵衛督を兼ね検非違使別当にも補せられた。のち、永承元年(1046年正二位に昇叙され、永承6年(1051年)に藤原寛子が後冷泉天皇の皇后に立てられると、隆国は皇后宮大夫も兼帯している。康平4年(1061年)子息の俊明を加賀守に任官させる代わりに、隆国は権中納言を辞した。その後は皇后宮大夫のみを帯びていたが、治暦元年(1065年)には大夫も辞任している。

後冷泉朝末の治暦3年(1067年権大納言に任ぜられ、翌治暦4年(1068年按察使を兼帯する。白河朝初頭の承保元年(1074年)外孫藤原師兼を参議に加える代わりに、隆国は権大納言を辞した。承保2年(1075年)太皇太后宮大夫を務めていた子息の隆俊が没したため、隆国が後任の大夫に任ぜられ、10年ぶりに再び藤原寛子に仕えている。

承保4年(1077年)病気のために出家し、7月9日薨去。享年74。

人物

藤原頼通の側近であり、その娘の皇后藤原寛子に皇后宮大夫として仕えた。一方で、頼通と血縁関係の薄い後三条天皇が東宮であった頃には礼を失することも度々であった。そのため、後三条天皇が即位すると、隆国とその息子たちは冷遇されるかと思われたが、後三条天皇は隆俊ら兄弟の有能さを認め重用している。

井澤長秀(肥後細川藩士、国学者関口流抜刀術第三代)によって、『今昔物語』の作者とされたが[1]、現在では否定説が有力である。なお、隆国は『宇治大納言物語』の作者ともされている。

官歴

公卿補任』による。

系譜

登場作品

脚注

  1. ^ 『考訂今昔物語』
  2. ^ 『公卿補任』

参考文献




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