孫之允の弟子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/10/07 07:40 UTC 版)
『五輪書』を伝授したことの明らかな弟子に浦上十兵衛、柴任三左衛門、山本源介、槙嶋甚助、他にも『武公伝』では孫之丞の高弟として筑後殿(肥後熊本藩筆頭家老八代城主・松井直之、長岡筑後を称す)重臣の山名十左衛門ほか、井上角兵衛正紹、中山平右衛門正勝、提次兵衛永衛の名前を挙げている。これだけでも孫之丞系の流儀の盛んな様子がわかる。その内、柴任三左衛門は細川家を辞し、筑前福岡藩に召抱えられ、福岡藩に武蔵の二天一流を広げ、その元祖となった。後に武蔵の伝記『武州伝来記』を残した丹治峯均や『兵法先師伝記』を顕した丹羽信英はこの流系である。 宇土松山の寺尾一族11基の墓は孫之允直系なのか不明である。中に「享保十年(1725年)五月初六日、釋夢世居士之塔」という碑が一つあったが。流派の系図には出ていない。『武公伝』では「夢世ハ一代ニテ兵術子孫に不傳」とある。 『武公伝』の編者豊田(橋津)正脩は父正剛以来、武蔵流兵法師範役である。正剛は、武蔵から幼年時にじかに手ほどきを受け孫之允から『五輪書』を相伝したとされる八代(やつしろ)城主松井直之に習い、正脩は同書の中で「此五方、堤又兵衛より予相傳ス。八水卜傳」と書いている。堤又兵衛は前出夢世の弟子に名をあげた堤次兵衛一水(改名)のことである。すなわち、『武公伝』もまた孫之丞の流系ということになる。 一方、弟の寺尾求馬助(もとめのすけ)系が隆盛するのは、孫之允没後、時代がずっと下がった求馬助の子供たちの代のようである。豊田家の先祖附によれば、八代に求馬助系の二天一流(村上派)が入るのは、『二天記』を編纂した孫の景英の時代であった。
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