学校教育のヒフミ唱法
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「音名・階名表記」の記事における「学校教育のヒフミ唱法」の解説
西洋式の「ドレミ唱法」が普及するまでのつなぎとして、明治11年から明治30年代の末まで学校教育で使われた和風の階名である。 明治8年(1875年)、伊沢修二はアメリカに渡って師範学校に留学し、翌年、ルーサー・ホワイティング・メーソンから直接「ドレミ唱法」のレッスンを受けた。伊沢は、DO RE MI FA SOL LA SIという当時の日本人の生活と何のつながりもない階名が、日本人にはなじまないであろうことに気付いた。伊沢はメーソンと相談した結果、日本語で12345678を表す「ヒー、フー、ミー、ヨー、イー、ムー、ナー、ヤー」を日本語の階名に転用することを決意した。明治11年に帰国した伊沢は、文部省に「唱歌法取調書」という報告書を提出し、その中で「ヒフミ唱法」を提唱した。以後、日本の学校教育では、明治30年代まで「ヒフミ唱法」が採用された。一方、音楽の専門家を養成するための東京音楽学校では、明治28年(1895年)、当時助教授だった小山作之助の提案により、「ヒフミ唱法」を廃止して、西洋式の「ドレミ唱法」を採用した。明治40年代以降は、小学校などの初等教育でも「ドレミ唱法」に置き換わった。当時の「ドレミ唱法」は「移動ド唱法」であった。 ヒフミ唱法の名残は、「ヨナ抜き音階」などの語に見られる。また坪井栄の小説『二十四の瞳』中にて、昭和初期の音楽教育における世代ギャップも描かれており、明治期の音楽教育を受けてヒフミ唱法しかできない男性教師が、ドレミ唱法になじんだ生徒たちに笑われる場面がある。
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