存続に腐心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)
従兄の楊盛が仇池公を継ぎ、北魏や後秦、東晋などとの外交関係に苦慮しながら存続に尽力した。396年には後秦に服属して仇池公に封じられ、398年には北魏に服属して仇池王に封じられ、399年には東晋に服属して平羌校尉・仇池公に服属し、404年には東晋から簒奪して楚の皇帝となった桓玄から西戎校尉に進められた。404年と405年には西秦と合戦、405年にはさらに後秦と戦い大敗したが、子の楊難当を人質に差し出して凌いだ。412年に楊盛は再度後秦に背いたため、その攻撃を受けたが撃退し、逆に416年には後秦を攻撃、417年に後秦が東晋に滅ぼされるまで戦った。後秦滅亡後は関中の覇権をめぐって衝突した。420年に東晋が劉裕に簒奪されて滅びると、楊盛は新たに成立した宋に服属し、422年には武都王に封じられたが、年号は東晋の義熙を使い続けた。425年6月に楊盛は死去し、息子の楊玄が跡を継いだ。 楊玄は宋の年号である元嘉を奉じて正式に宋に服属するが、426年12月に北魏が長安を獲得したため、北魏に服属し、以後は南朝重視路線から南北両朝通交路線に改めた。429年に楊玄は死去し、子の楊保宗が跡を継いだが、すぐに叔父の楊難当に廃されてしまい、楊難当は宋に服属した。432年に後仇池では飢饉が発生、同時期に宋では司馬飛龍の乱が起こったので楊難当はこれに乗じて梁州(現在の四川省東部)北部を攻撃して漢中を占領したが、すぐに宋の蕭思話の反撃を受け、434年に楊難当は謝罪して再度宋に服属した。 一方、先に廃された楊保宗は432年に楊難当に叛いたが失敗して捕らえられ、435年には赦免されて董亭(現在の甘粛省天水市)に鎮したが、後に兄の楊保顕と共に北魏に亡命した。436年3月、楊難当は建義という独自の年号を建て、自らを大秦王、妻を王后、世子の楊和を太子として本格的に自立し、南北朝のどちらにも属さない完全な独立国としての体制を敷いた。
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