存続する千切屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:13 UTC 版)
本家の千切屋与三右衛門家は明治期に絶家となったが、以下の分家は現在も京都の和装産業の老舗として営業を続けている。 千切屋吉右衛門家(千吉) 本家与三右衛門家の4代目の子・貞利が分家して吉右衛門を代々名乗り 千切屋吉右衛門を略した「千吉(ちきち)」を社名とした。寛文5(1665)年から衣棚町に居を構えて法衣商として出発し、近年まで和装関係の会社として続いた。僧侶の衣服である法衣仕立販売の他に、西陣織の販売、問屋、また金融業を営んだ。 千切屋治兵衛家(千治) 2代目与三右衛門から分家した玄貞の子・尚貞が治兵衛を名乗り、代々それを襲名し、千切屋治兵衛を略した「千治(ちじ)」を社名とした。現・千切屋治兵衞株式会社。京友禅呉服製造卸業を営んでいる。明治期の当主・西村治兵衛14代(1861-1910)は19歳で先代の養嫡子となり、若い頃より西陣織物商組合長や京都商工銀行副頭取などを皮切りに、京都商業会議所理事、京都染呉服商組合長、京都商工貯金銀行頭取、京都市常設勧業委員長、京都市教育委員長などを歴任、1900年には農商務省の依頼で絹物の海外販路調査のため欧米を視察、帰国後も京都商工会議所会頭など重役を歴任、1904年のセントルイス万国博覧会では織物審査官副議長を務め、1908年には衆議院議員となり、翌年渋沢栄一率いる渡米実業団に参加するなど精力的に活躍した。 千切屋惣左衛門家(千総) 2代目与三右衛門から分家した恵貞の子・直道が惣左衛門を名乗り、代々それを襲名し(惣のほか宗、総)、千切屋総左衛門を略した「千総(ちそう)」を社名とした。12代当主西村総左衛門が明治期に活躍し、繁栄した。
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