婚姻と内乱鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 03:16 UTC 版)
「ヘンリー7世 (イングランド王)」の記事における「婚姻と内乱鎮圧」の解説
ヘンリー7世はまず王位を固めなければならなかった。1486年には、共にジョン・オブ・ゴーントの玄孫であり、ヨーク家のエドワード4世の世継ぎエリザベスとウェストミンスター寺院で結婚し、長く対立してきたランカスター家とヨーク家を統合した。ランカスター家の赤薔薇の紋とヨーク家の白薔薇の紋を組み合わせて、テューダー・ローズをテューダー家の紋とした。また、この結婚によって、エドワード3世の次男のライオネル・オブ・アントワープの娘フィリッパの子孫と結婚した四男の初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーの子孫の王位継承権が、三男のジョン・オブ・ゴーントの子孫の王位継承権に勝るのかどうかという長年の論議が終結した。また、エドワード4世の子らを私生児におとしめていた議会の決議を無効とし、妻のエリザベスを嫡出子の地位に戻した。 ヘンリーはボズワースの戦いの前日の1485年8月21日にさかのぼって即位を宣言し、リチャード3世の側で戦った者全てを反逆罪に問えるようにした。だがその対応は相手に応じて変化し、リチャード3世の甥で王位継承者であったリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールは助命する一方、同じくリチャード3世の甥で前の王位継承者であったクラレンス公ジョージの長男のウォリック伯エドワードは捕え幽閉したが、その姉のマーガレット・ポールをソールスベリーの女伯爵にして融和を図った。10月30日にはウェストミンスター寺院で即位式を挙げ、自分に忠誠を誓う者は過去の行動を問わず、その生命と財産を保証するとした。 即位後は、ヘンリー7世の王位継承権の疑惑(テューダー朝を参照)から王位を僭称するものが相次いだ。1486年にはランバート・シムネルがリチャード3世の旧支持者たちに擁立されて、本物は幽閉中であったウォリック伯エドワードと名乗り、翌1487年にダブリンで国王エドワード6世を称した。これにエドワード4世の妹ブルゴーニュ公シャルル妃マーガレットや、先に助命したリンカーン伯などが味方して王位要求の軍を起こすが、ストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世に敗れた。シムネルは捕らえられたが、大人に操られただけだとして刑を免じられ、厨房の召使とされた。リンカーン伯は戦死した。 1490年にはパーキン・ウォーベックがエドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗って国王リチャード4世を自称し、再びブルゴーニュ公妃マーガレットの支持を得てイングランドへ侵攻し、フランス王シャルル8世やスコットランド王ジェームズ4世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となったが敗れて捕えられた。幽閉していたウォリック伯エドワードとパーキン・ウォーベックは1499年に脱走を図って失敗し処刑された。エドワードの姉マーガレット・ポールは再び助命されたが、後にヘンリー8世によって処刑されることになる。
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