始祖源義光から甲斐国土着とは? わかりやすく解説

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始祖源義光から甲斐国土着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 13:49 UTC 版)

武田氏」の記事における「始祖源義光から甲斐国土着」の解説

武田氏の祖は、後世当主からは河内国壷井現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏棟梁源頼義三男源義光新羅三郎義光)と位置づけられている。河内源氏称した源頼信1029年長元2年)に甲斐守に任官し、頼義から義光と継承される。頼義までは在京現地へは赴いていないと考えられているが、義光は初め甲斐へ着任し土着した人物とも言われ山梨県北杜市須玉町若神子若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。1981年昭和56年)の発掘調査では出土遺物確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠発見されず、また古代甲斐における国衙八代郡であることからも義光の入国疑問視する声もある。また、甲斐任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。 現在では、志田諄一1968年昭和43年)に『勝田市史』において提唱した、義光の子である源義清(武田冠者)常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を本貫として武田姓を名乗ったのが発祥とする説が、定説として支持されている。1130年大治5年)に義清の嫡男清光狼藉行為原因父子常陸追放され甲斐国巨摩郡市河荘現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたという。他の配流先は現在の山梨県中巨摩郡昭和町西条あたりなどの説もある。 義清父子八ヶ岳山麓逸見荘へ進出し清光逸見(へみ)姓(逸見冠者)を名乗るその後、義清の孫にあたる信義元服の際に武田八幡宮において祖父義清の武田姓に復し甲斐国巨摩郡武田現在の山梨県韮崎市一帯)を本拠地としたことから、その後に続く武田氏初代とされる信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命されその子の信光は甲斐安芸守護にも任ぜられ、武田氏甲斐安芸繁栄する基礎築いた

※この「始祖源義光から甲斐国土着」の解説は、「武田氏」の解説の一部です。
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