女王ヴィクトリアの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:37 UTC 版)
『スコットランドの衣類』が出版された1842年は、ヴィクトリア女王と彼女の夫、アルバート公がハイランドへ初めて旅行した年でもあった。女王はハイランドをいたく気に入り、その後もたびたび訪れ、1848年にはバルモラル城で夏を過ごすようになった。1852年には城を買い取り、1853年から古城を取り壊しアルバート公自身が指揮を執って新たなバルモラル城を建造した。そのインテリアにはふんだんにタータンが使われた。女王の部屋のカーペットには赤いロイヤル・スチュアートとベースを緑に変えたハンティング・スチュアートが使われ、カーテンと家具の装飾にドレス・スチュアートが使われた。さらに女王はヴィクトリア・タータンをデザインし、アルバート公はバルモラル・タータンをデザインしている。女王は外出時にタータンのスカーフを身に着け、また旅行の際にヴィクトリア・タータンのドレスを着ていったという。アルバート公もキルトを着て外出し、子供たちにもタータンで出来た衣服を着させていた。女王一家がタータンを身に着けていたことで、タータンはファッション素材として爆発的に流行していった。「ハンティング」や「ドレス」といった分類が生まれたのもこの頃のことである。日本にもこの時期にタータンが紹介されたと考えられている。明治期の日本はイギリスとの交流がさかんであり、イギリスの流行が日本に伝わったと考えられている。明治期にタータンは「縞スコッチ」「スコッチ」などと呼称されていた。ヴィクトリア女王はタータンをこよなく愛し、タータンを広めることに大きく貢献した一方、伝統文化であるタータンを商業主義に貶めたと批判する声もある。 ヴィクトリア女王が著した『ハイランド生活日誌からの数葉』 (Leaves from the Journal of our Life in the Highlands) が国民的人気になったこともあり、ハイランドへの旅行者は数を増していった。ハイランドではこうした旅行者への土産物としてタータンウェア (tartanware) と呼ばれる工芸品が作り出された。嗅ぎたばこ入れ(スナッフ・ボックス(英語版))やティーキャディー(英語版)(茶入れ)、筆記用具、裁縫道具などにタータンをあしらった土産物が多数作られた。これらの土産物は今日ではアンティークとしてコレクターの収集対象となっている。 1861年にスコットランド出身の物理学者であるジェームズ・クラーク・マクスウェルが撮影した世界初のカラー写真の被写体には、タータンのリボンが選ばれた。
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