女優の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:05 UTC 版)
1919年(大正8年)、女学校を中退して女優になろうと決意するが、厳格な父に猛反対される。そこで父には内緒で、母を口説いて20円の金を借りて家出する。女優への足がかりとして、沼津に来ていた奇術の松旭斎天外一座に加わって遠山みどりの芸名で一座とともに全国を巡業するが、下ごしらえばかりで給金は貰えず、なかなか旅費が工面できなかった。 1921年(大正10年)春、山梨県大月に来たとき、やっと一座を抜けて上京する。日活向島撮影所を訪ね、門衛に女優志願を告げると門前払いをくらい、仕方なく浅草の根岸歌劇団のオペラ小屋・金龍館に入ると、楽屋口に女優募集の貼り紙があり、即座に応募して採用される。奇術一座時代の芸名でコーラスガールとして舞台に立つが、田谷力三からは「君は素質もないし、器量も良くないから、家に帰った方がいいよ」と言われた。やがて芸名を静浦ちどりと変え、役が付いてきたが、6ヶ月を過ぎたころ、音楽部員でチェロを弾いていた外山千里の口利きで、大阪の浪華少女歌劇団に入団する。遠山ちどりの芸名でお伽劇や舞踊劇に出演し、ここで後に溝口健二夫人となる嵯峨千枝子と出会い、「サガチー」「トーチー」とあだ名で呼び合う仲となる。 1922年(大正11年)、歌劇団を退団して上京。外山の世話で3月から上野公園で催された平和記念東京博覧会に余興として出演していた平和歌劇団に入り、再び静浦ちどりの芸名で舞台に立つ。博覧会が終わると、ここで仲間となった杉寛に誘われ、旅回りの新派一座と合同のオペレッタ一座に加わる。横須賀へ巡業した際、新派の女優に活動写真出演を誘われ、高田馬場にあった小松商会という町工場程度の撮影所を持った会社に入社する。月給は40円。監督の波多野安正と夫人の松本静子と親しくなり、演技の勉強のため彼らの勧めで、撮影が終わると早稲田の近くの小劇場で常打ちしている玉椿道場という新派一座にも出演するようになる。 1923年(大正12年)、小松商会の撮影所は解散。思いあぐねていたところ、易者から「このまま東京にいると死ぬか大怪我する」と言われ(実際、この年の9月1日に関東大震災が起こった)、昔の仲間もいることから大阪へ向かい、京都で旗揚げした沢モリノ一座に入る。一座は不入り続きで解散寸前だったが、一座ぐるみ新京極の中座へ契約され、新派の筒井徳二郎一座と合同公演をする。そのうち、筒井一座の娘役が急病で倒れその代役に立ったところ、座長に認められて筒井一座に移る。同年7月から名古屋公演に同行、新聞の演芸欄に名前が載るようになる。
※この「女優の道へ」の解説は、「浦辺粂子」の解説の一部です。
「女優の道へ」を含む「浦辺粂子」の記事については、「浦辺粂子」の概要を参照ください。
- 女優の道へのページへのリンク