奇跡の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:29 UTC 版)
「ブランデンブルクの奇跡」の記事における「奇跡の内容」の解説
1759年8月12日、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍はクーネルスドルフの戦いで惨敗を喫した。オーストリアとロシアの連合軍によって2万近い将兵を失った大王はかろうじてオーデル川左岸の小村に逃れたものの、つき従う軍勢は3千に過ぎず、事態はもはや絶望的と思われた。大王はベルリンの留守を預かる大臣のカール・ヴィルヘルム・フィンク・フォン・フィンケンシュタインにあてて手紙を書いた。 今朝の11時、私は敵軍に攻撃を仕掛けた。…(中略)…私の兵士たちは驚くべき働きをして見せたが、その代償はあまりにも大きかった。我が兵は混乱しきっていた。私は3度も彼らを再編した。最後には私は捕縛の危険に晒され、逃走するほかなかった。銃弾が私の上着を掠め、私の2頭の馬は射殺されてしまった。私が生き残ったことは不運でしか無い…(中略)…我々の敗北は甚大である。48,000名のうち留まったのはたった3000名でしかない。こうして私が手紙を書いている間にも、皆は次々に逃げて行く。私は既にこの陸軍の司令官ではない。ベルリンの皆の安全について考えるのは良い活動だ…(中略)…私が死んで行くのは悲惨な失態だ。戦いの結果は戦闘そのものよりもさらに悪くなるだろう。私にこれ以上の手段はなく、そして正直に言って、全ては失われたのだと思う。私は生きて祖国の滅亡を見たくはない。さようなら、永遠に! 大王はロシア軍とオーストリア軍が最終的な決着をつけるべく攻撃してくると考え、王位継承者に甥のフリードリヒ・ヴィルヘルムを、軍の最高指揮官に弟のハインリヒをそれぞれ指名し、部隊の指揮をフリードリヒ・アウグスト・フォン・フィンクに委ねると、自身は「生きて祖国の滅亡を見るつもりはない」姿勢を示した。 敵の攻撃を待つ数日の間に、敗走していた部隊が三々五々集結してきて大王は兵力を回復したが、予想された敵の攻撃はなかった。そのしばらくの間に大王も敗戦の精神的衝撃から立ち直り、「ひたすら国家のために」戦い抜くことをあらためて決意すると、ハインリヒに手紙を書いた。 私は君に、ブランデンブルク家の奇跡を報告します。敵はオーデル川の対岸へ移ってしまいました。そして敵は、2回目の戦闘を挑んで、この戦争を終わらせようと思えば出来たのに、案に相違してミュルローゼからリーベローゼの方向へ向かったのです。 こうして、プロイセンはひとつの危機を脱した。しかし戦争はまだまだ続き、大王はこの先も危ない綱渡りをしなければならなかった。
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