太鼓指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:28 UTC 版)
田耕の発案により全国より集まった若者達は、最初は太鼓とは無縁の素人ばかりであり、この初発の太鼓の右左分からない集団に太鼓を指導したのは、当時の舞台興行太鼓の先駆け的存在だった福井県芦原温泉九頭龍太鼓の川崎肇と、同福井県三国町の伝統民族太鼓として知られる三国太鼓(現.火の太鼓保存会)の下村圭一が担当した。当初、座員メンバーは太鼓を修めるために芦原温泉を訪れて研修し、初期の鬼太鼓座には北陸のリズムを基本にした「芦原幻想曲」という未発表曲がある。後に鬼太鼓座の大太鼓曲となった「三国幻想曲」は、大太鼓を指導した下村圭一を偲ぶものとされる。 ただ当初の大太鼓は現在の形とは違い、「太鼓の右側に立って左を利き腕に斜め打ち」という三国福井の伝統スタイルをそのまま取り入れていたが、当時に大太鼓を受け持っていた林英哲が後に、現在の「太鼓の正面から打つ」スタンスに改良した。 鬼太鼓座に奇抜さを求めた田耕に、座って太鼓を叩くことを川崎肇が提言。これが屋台囃子を始めるきっかけとなり、秩父埼玉の現地保存会で本格的な指導を受ける。また初発の太鼓指導を受け持った川崎肇が当時、車引きをしていたことから、田の「日本の力強い太鼓の響きは強靭な足腰から」という理念に影響を落とす。
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