太枡騒動の終結・関係者の処罰
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「太枡騒動」の記事における「太枡騒動の終結・関係者の処罰」の解説
百姓の強訴は禁止されていたため、同年2月8日に21名は捕縛され吟味中入牢となり、田安家に引き渡される。同年8月24日(寛政5年7月18日)には勘定奉行による裁許が発せされ処罰が下され、首謀者のうち綿塚村の重右衛門、金田村の重右衛門は獄門、熊野村の勘兵衛は死罪となり、首は日川で晒された。以下、4名は遠島となっているが、一部は裁許をまたずに牢内で病死している。また、国元や江戸に残る惣代らも召還されて処罰された。 金田村の重右衛門らは文久3年(1863年)に義民として顕彰され、「金明大明神」として祀られた。 一方、田安家では地方役・山下次助(治助)が追放刑に処された。山下次助は八代郡小石和村(笛吹市石和町)出身で、生家は酒造業を営む松葉屋。次助は算術を納め地方の事情にも明るく、生家に伝わる系図によれば宝暦年間に田安家に奉公し、年貢収取に携わる。太枡騒動以前には領内で発生した傷害事件の処理を巡る次助の行状で駕籠訴も発生していた。太枡騒動の処罰後には剃髪し「了一」「一徳斎」を名乗ったという。文化8年(1811年)に死去。 次助は田安家側で処罰されたのは唯一の人物であり、後世には騒動の原因を次助個人の不正に求める理解も見られる。一方で騒動の訴状では次助を糾弾したものは見られず、田安家が治助一人に騒動の責任を負わせることで事件の解決を図ろうとしたことも指摘される。
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