大鼓方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/06/29 07:58 UTC 版)
大鼓方(おおつづみ がた、おおかわ がた)は、能楽囃子や歌舞伎鳴物において大鼓を担当する専門の職掌。またその職にある人。能楽にあっては大小物の場合、囃子全体のリズムをリードする重要な役目を担う。大鼓の項参照。
解説
大鼓は本来小鼓の連調から生まれた楽器であり、もとは一座の鼓方のうち上位の者が小鼓を打ち、下位の者が大鼓をあしらった。そのため能楽の大鼓方では、小鼓方から分かれた流儀が多く、手を合わせやすいよう譜が工夫されている。大鼓は能楽の職掌のうちでももっとも役者数の不足に悩んでおり、催能の増加傾向と相俟って後継者養成が急務となっている。
歌舞伎ではもっぱら長唄曲の鳴物として活用され、特に松羽目物・能取物において重要な役割を担う(そのほか下座で用いることもある)。鳴物小鼓は連調することが一般的だが、大鼓は必ず一人で奏する。奏法、譜としては能楽囃子と大差なく、江戸時代にはご法度とされたが、現在では歌舞伎鳴物の大鼓方が能楽囃子の大鼓方に師事している例も少なくない。
流派
参考文献
ほか
大鼓方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:55 UTC 版)
大鼓方大倉流は金春流座付きとして活躍した大鼓方の流儀。 金春禅竹の三男大蔵道加が分家し、子の二世九郎能氏が観世信光に師事して一流を興した。三世二助虎家(道知)は織田信長の贔屓を受け、四世平蔵正氏、五世源右衛門正幸と紫の調緒を許された名人が輩出するものの、正幸に後嗣がなかったために、小鼓方二世大倉宣安の孫仁右衛門宣充が六世を相続した。 以後は小鼓方のアシライ鼓として終始し、江戸時代中期以降は奈良に在住して尾張藩の扶持を受けた。維新後、十五世七左衛門宣利が囃子方の申合せを破って梅若流に参加したため、家元の座を追われ、以降小鼓方の家元が大鼓方を預っている。東京、大阪などが主要な地盤で、能楽協会に登録された役者は10名余。手組みの数そのものが少なく、掛け声などにも古風を残す。長らく小鼓方大倉流のアシライ鼓であったため、手組みはもっとも同流に適する。
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