大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化とは? わかりやすく解説

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大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 07:14 UTC 版)

市営モンロー主義」の記事における「大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化」の解説

1960年代以降モータリゼーション道路渋滞によって市電遅延するようになってからは、市電収益悪化し都市計画事業財源とすることができなくなった。そのため、起債による資金調達考慮しても、市電代替する地下鉄巨額建設財源大阪市独力で確保することは困難となった。 この結果大阪市営地下鉄運賃、特に初乗り運賃他社線比較して非常に高額となり、大手私鉄中でも特に閑散線区の多い近鉄比較して約2倍の輸送密度を持つにもかかわらず、その巨額建設費用由来する負債の返済が、財政上大きな負担としてのしかかるようになった。この対応として、建設費用廉価な新交通システムミニ地下鉄研究実用化行われたが、路線網拡張万博対策として実施された、1960年代後半から1970年代初頭にかけての緊急5カ年計画以降急速に鈍化している。 この間1955年運輸大臣諮問機関として都市交通審議会設置され大阪地区については大阪部会が特に設けられ審議が行われた。この審議会では3年間に17回に及ぶ会合が行われ、大阪市交通局地下鉄整備財政難により、遅々として進まない状況下で急速に悪化する大阪市内交通事情改善目的として、私鉄各社による市内中心部への乗り入れ路線建設が望ましいとする都市交通審議会答申第3号』が1958年運輸大臣提出された。この国政レベルでの大阪市内交通政策対す直接介入結果1963年京阪本線淀屋橋駅乗り入れ続いて1970年には近鉄難波線近鉄難波駅(現・大阪難波駅乗り入れ実現し在阪大手私鉄幹線全て御堂筋線の駅に接続した。それらは、大阪市市中心部への私鉄乗り入れ容認するようになったという画期的な出来事で、これをきっかけ大阪市市営モンロー主義政策徐々に緩和されていくようになるその後1987年国鉄分割民営化されてJR西日本誕生した

※この「大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化」の解説は、「市営モンロー主義」の解説の一部です。
「大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化」を含む「市営モンロー主義」の記事については、「市営モンロー主義」の概要を参照ください。

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