大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化
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「市営モンロー主義」の記事における「大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化」の解説
1960年代以降のモータリゼーションで道路渋滞によって市電が遅延するようになってからは、市電の収益は悪化し都市計画事業の財源とすることができなくなった。そのため、起債による資金調達を考慮しても、市電を代替する地下鉄の巨額の建設財源を大阪市が独力で確保することは困難となった。 この結果、大阪市営地下鉄の運賃、特に初乗り運賃は他社線と比較して非常に高額となり、大手私鉄中でも特に閑散線区の多い近鉄と比較して約2倍の輸送密度を持つにもかかわらず、その巨額の建設費用に由来する負債の返済が、財政上大きな負担としてのしかかるようになった。この対応として、建設費用の廉価な新交通システムやミニ地下鉄の研究・実用化も行われたが、路線網の拡張は万博対策として実施された、1960年代後半から1970年代初頭にかけての緊急5カ年計画以降、急速に鈍化している。 この間、1955年に運輸大臣の諮問機関として都市交通審議会が設置され大阪地区については大阪部会が特に設けられて審議が行われた。この審議会では3年間に17回に及ぶ会合が行われ、大阪市交通局の地下鉄整備が財政難により、遅々として進まない状況下で急速に悪化する大阪市内の交通事情の改善を目的として、私鉄各社による市内中心部への乗り入れ路線の建設が望ましいとする『都市交通審議会答申第3号』が1958年に運輸大臣へ提出された。この国政レベルでの大阪市内の交通政策に対する直接介入の結果、1963年に京阪本線の淀屋橋駅乗り入れ、続いて1970年には近鉄難波線の近鉄難波駅(現・大阪難波駅)乗り入れが実現し、在阪大手私鉄の幹線は全て御堂筋線の駅に接続した。それらは、大阪市が市中心部への私鉄の乗り入れを容認するようになったという画期的な出来事で、これをきっかけに大阪市の市営モンロー主義政策も徐々に緩和されていくようになる。 その後、1987年に国鉄が分割民営化されてJR西日本が誕生した。
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