大銭鋳造への段取
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京都の糸割符年寄り、長崎屋忠七・菱屋五兵衛・鮫屋三郎兵衛・清水宗仙ら糸割符仲間が鋳銭を幕府に願い出て、稲垣対馬守重富の計らいにより、大銭の鋳造を請け負うこととなった。宝永4年11月19日(1707年12月12日)、中根摂津守が西町奉行所にて大銭鋳造の件を京銭座に命ぜられた旨を申し渡し、翌年の宝永5年2月21日(1708年4月11日)から京都七条で十文銭の鋳造を開始した。 宝永5年閏正月28日(1708年3月20日)付の三ヶ条から成る通用触書が江戸より京都に到来、2月8日(1708年3月29日)付で京都町奉行から京都駐在の代官小堀仁右衛門他5人の代官に報告され、2月10日(1708年3月31日)付で公布された。これは「一両=3.9~4貫文より高下なく大銭を差混ぜて通用すべき」との触書であった。通用は宝永5年4月からとされた。 御触書 一 今度京都銭座にて大銭出来候、世間通用の為に候間、諸国何方によらず、売買請取方無滞只今迄の新銭に交へ、通用可申候、但大銭一銭は、只今の十銭に当り候事 一 只今迄の新銭、相庭金壱両に銭三貫九百文より四貫文迄の積りに定め、夫より高下無之様相守り、大銭を差交へ通用可仕事 附大銭当四月より通用可仕候事 一 大銭外にて、似せ拵候者於有之は、可為曲事事 寳永五子年二月十日 銭座では寛永通寳の鋳造高の約一割を運上として幕府に納めるのが慣行であったが、『京都御役所向大概覚書』によれば、この大銭鋳造においては一カ年十万貫文を鋳造し、うち五万貫文を運上すると定められたが、この内47,750貫文が上納され、残り250貫文は到着前に通用停止となったため上納されなかったという。
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