大証券取引所詐欺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:49 UTC 版)
「トマス・コクラン」の記事における「大証券取引所詐欺事件」の解説
コクランは1814年の大証券取引所詐欺事件の共謀者として裁判にかけられ、有罪判決を下された。しかし、彼は後半生を通じて「無実」であることを訴えつづけた。裁判長であるエレンバラ卿の判決はコクランに対する偏見に基づくものだったが、大部分の歴史家は、コクランについての状況証拠から、彼が少なくとも、(叔父のアンドリュー・コクラン-ジョンストンの手駒のひとつにすぎなかったとしても)共謀者の一人であったと考えている。1830年、チャールズ・グレンヴィルは、コクランが有罪であったとしてもなお彼を賞賛する、と書き記している。実際、ビクトリア朝時代を通じて、彼は無実だったと信じられていた。 彼は、1時間の「さらし台」(首と手を拘束して公衆の面前にさらされる不名誉な刑罰)と1年の投獄、および1,000ポンドの罰金を宣告された。しかし彼の支持者が暴動を起こす恐れがあったため、さらし台の刑罰は免除された。彼は、議会と海軍から追放された。また更なる不名誉として、彼のナイトの爵位が剥奪され、また不名誉除隊の儀式が執行された。しかし彼は、ウエストミンスター選挙区においてすぐに下院に再選された。彼の弾劾と判決、特に品位を傷つけるさらし台の刑罰に対する市民の憤りは極めて大きなものだった。1,000ポンドの罰金は一般の寄付によってまかなわれた。 コクランはその後の人生を費やして、有罪判決を覆し、名誉を復活させるために運動した。彼は1832年に王の恩赦を受けて、軍籍を復活し、海軍少将に任じられた。しかしヴィクトリア女王自らの干渉によってナイト爵位の回復は1847年までは行われなかった。そして1860年にやっと、彼の旗はウエストミンスター寺院に戻り、かろうじて葬儀に間に合った。
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