大評議会の運用
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「ファシズム大評議会」の記事における「大評議会の運用」の解説
ムッソリーニは1929年12月5日の下院への報告において大評議会を「体制の参謀本部」と表現しているが、実際には決定権は無く、諮問機能を持つに過ぎなかった。大評議会では党の問題や内政問題、ロンドン軍縮会議、国際連盟脱退、アルバニア侵攻などの外交問題が討議されているが、第二次エチオピア戦争や第二次世界大戦のポーランド侵攻後の宣戦問題、1940年6月の対連合国宣戦(en:Italian invasion of France)については討議されていない。全般的な傾向として、国家改革問題については詳細な討議が行われているが、経済・産業分野の討議はほとんど行われていない。 1923年中にはほぼ毎月、30回開催されたが、1924年と1925年には20回前後となり、1926年から1933年までは年10回程度の開催となった。1934年にはわずか1回、1938年には10回と回数も不安定となり、1940年から1942年には一度も開催されなかった。第3回からは開催場所をコロンナ広場の党本部に移し、その後は主にヴェネツィア宮殿で開かれるようになった。1926年3月から1929年の109回まではキージ宮殿(en:Palazzo Chigi)、以降は基本的にヴェネツィア宮殿で開催された。
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