松平近説とは? わかりやすく解説

松平近説

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 10:53 UTC 版)

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松平近説 / 大給近説
松平近説
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政11年12月5日1829年1月10日
死没 明治19年(1886年11月18日
改名 松平近説、大給近説
戒名 心寛院
墓所 東京都文京区小石川の伝通院
官位 従五位下左衛門尉
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行若年寄
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
豊後府内藩
氏族 久松松平家大給松平家→大給家
父母 父:松平定永、母:不詳
養父:松平近信
兄弟 定和板倉勝静土岐頼之近説石川総禄正室ら
松平乗全の娘
太田資師の娘
養子:大給近道
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松平 近説(まつだいら ちかよし)は、江戸時代後期の大名豊後国府内藩第10代(最後)の藩主。親清流大給松平家14代。幕末に大給(おぎゅう)姓に改名し、大給近説と名乗った。

生涯

伊勢国桑名藩主・松平定永の十一男として誕生した。

天保12年(1841年)7月、松平近信の死去に際し、末期養子として家督を相続する。天保13年(1842年)5月、第12代将軍・徳川家慶御目見する。同年10月、従五位下・左衛門尉に叙任する。14歳で急遽藩主となったため、当初は先々代藩主の近訓が後見役となった。その7年後から政務を執るようになり、藩校・遊焉館や医学館(稽全館)を設置するなど、特に学問の奨励に尽力した。

文久元年(1860年)8月20日、奏者番となる。元治元年(1864年)11月1日、寺社奉行兼任となる。同年12月27日、寺社奉行兼任を解かれる。慶応元年6月15日、再び寺社奉行兼任となる。同年11月12日、御用取次役兼任となる。慶応3年(1867年)7月5日、若年寄となる。同年9月1日、会計奉行兼任となる。同年12月3日、国内事務の担当を命じられる。また、第二次長州征討では小倉に出兵したものの、大政奉還後には国元で勤王派の増沢近篤(虎之丞、近訓の長男)が藩主代理に立てられ、幕府要職にあった近説は裏切られる形となった。

慶応4年(1868年)2月6日、若年寄を辞職した。同年3月20日、松平姓を大給に改めた。同年3月25日、恭順の姿勢を示すため上洛したものの、謹慎を命じられた。中川久昭を仲立ちに謝罪する。同年5月13日、謹慎を解かれる。同年7月10日、ようやく帰藩を許可される。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により府内藩知事に任命された。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により知事職を解任された。同年10月10日、養子近道(1854年 - 1902年、実父は府内藩士族の増沢近篤[1]、8代府内藩主松平近訓の孫)に家督を譲って隠居した。明治19年(1886年)死去、享年58。

系譜

  • 父:松平定永(1791年 - 1838年)
  • 母:不詳
  • 養父:松平近信(1804年 - 1841年)
  • 正室:松平乗全
  • 継室:太田資師娘
  • 養子
    • 男子:大給近道 - 家督を継いだ大給近道は明治維新で子爵となり、近道の死後、長男の大給近孝が子爵家を相続した。

脚注

  1. ^ 日本弘道會評議員 子爵 大給近孝 『大分県人士録』(大分県人士録発行所、1914年)

外部リンク

当主
先代:
松平近信
府内藩大給(松平)家
1841年 - 1871年
次代:
大給近道




固有名詞の分類


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