大砲の鋳造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 14:35 UTC 版)
安政2年11月26日の火入れの時点では、煉瓦の積み残しがあるなど炉は完全な状態ではなく、安政3年1月22日(1856年2月27日)に反射炉に鉱物を投入する窓の鉄蓋の改鋳作業をもって、工事は終了した。2月3日(3月9日)に1回目の鉄の試溶を行い、5回目の溶解でモルチール砲1門が鋳造された。砲身をくり抜く作業を行った後、7月28日(8月28日)に6発の試射を実施したが、途中で薬室にひび割れが生じ、5発が内部で砕け散るという失敗に終わった。5月18日(6月20日)の6回目の溶解でできた大砲は鋳巣(空隙)のある不良品で試射は見送られ、8月1日(8月30日)の8回目の溶解でできた大砲は、9月26日(10月24日)の試射で左右の銃耳が折れてしまったが、そのまま幕府に納めた。8月25日(9月23日)に襲来した台風で煙突が折れたため、安政3年の操業は以上8回で終了し、大砲3門を鋳造、うち「製品」となったのは1門という稼動成績であった。折れた煙突は11月15日(12月12日)に修理が完了した。 この間、砲身加工に使う水車場の建設が、那珂湊の北西に1.5 km離れた柳沢村(現・ひたちなか市柳沢)で進み、6月16日(7月17日)に完成した。大島高任と折り合いの悪かった竹下清右衛門は、水車場ができるとそこに移り、自身の得意とする機械加工の業務に従事した。水車場および隣接する錐入場(錐鑽機を設置)の施設自体は整ったが、そこで使う中丸川の水は農業用水との兼用であったため、3月初めから夏の土用までは使用制限がかかり、砲身加工の作業能率は悪かった。 また大島は良質の鉄を得るため、盛岡藩領の釜石に高炉を建設すべく、8月14日(9月12日)に水戸藩から「百日の御暇」をもらって釜石へ旅立った。これ以降の大砲の鋳造や試射は竹下らが中心となって進めた。
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