水戸藩の反射炉と中小坂鉄山
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「中小坂鉄山」の記事における「水戸藩の反射炉と中小坂鉄山」の解説
中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期は、諸外国との緊張が高まりを見せており、1850年代、とりわけ嘉永3年1853年のペリー来航以降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってきた。すでに18世紀末の段階で欧米では旧来の青銅製の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようになっていたが、1840年代、高島秋帆そして江川英龍らが鉄製の大砲の採用を進言した。しかし1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多くが不良品であった。鉄製大砲の鋳造が上手くいかない原因は、これまでの日本の製鉄原料となっていた砂鉄が大砲の砲身の材料鉄としては不向きで、岩鉄すなわち鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考えられた。 当時、水戸藩の徳川斉昭は強硬な攘夷思想を持っており、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して鉄製の大砲を鋳造することにした。しかし斉昭の強硬な攘夷思想の影響もあって、水戸藩内には蘭学など西洋の技術を学んだ人材がいなかったため、南部藩士の大島高任など、藩外部から人材の派遣を受けて反射炉の建造を進めることになった。 大島高任は鉄製大砲の鋳造には鉄鉱石の鉄を用いる必要があると判断していた。安政3年(1856年)、大島は中小坂鉄山の鉄鉱石を鑑定し、大砲鋳造用の鉄の原料として極めて優秀な鉱石であるとした。そこで中小坂鉄山の鉄、約1800貫目が数回に分けて那珂湊に建設された水戸藩の反射炉で用いるために運ばれることになった。 安政3年7月22日(1856年8月22日)、那珂湊反射炉で中小坂鉄山の銑鉄354貫目が装入されたが、炉内で上手く融解が進まず中小坂鉄山の鉄では大砲鋳造は成功しなかった。同じく安政3年(1856年)、水戸藩より中小坂鉱山の現地に調査が行われ、鉄鉱石の精練を行うための高炉建設を、中小坂鉱山の現地と水戸藩領内のどちらで行うのが有利であるかについて調査が行われた。調査は鉱石を運搬する費用、木炭や石炭の価格、そして人件費を比較して、中小坂と水戸藩領内のどちらがコスト的に安価に済むか検討がなされた。しかし水戸藩の財政難のために中小坂鉱山の鉄鉱石を利用する高炉建設は行われることがなく、安政5年(1858年)からの安政の大獄の中で、水戸藩の反射炉を用いた大砲鋳造事業は中断されることになった。 中小坂鉄山では、水戸藩の反射炉で大砲を鋳造するための鉄を得るための採掘等は安政5年(1858年)以降行われなくなったと考えられるが、安政5年(1858年)から文久年間(1861年-1864年)にかけて、中小坂鉄山は試掘が続けられていたことを示す文書が残されている。
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