水戸藩の反射炉と中小坂鉄山とは? わかりやすく解説

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水戸藩の反射炉と中小坂鉄山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 13:46 UTC 版)

中小坂鉄山」の記事における「水戸藩の反射炉と中小坂鉄山」の解説

中小坂鉄山発見され鉱山開発開始され幕末期は、諸外国との緊張高まり見せており、1850年代とりわけ嘉永3年1853年ペリー来航以降幕府諸大名大砲鋳造取り組むようになってきた。すでに18世紀末段階欧米では旧来の青銅製の大砲ではなく鉄製大砲用いられているようになっていたが、1840年代高島秋帆そして江川英龍らが鉄製大砲採用進言した。しかし1850年代以降各地反射炉建設され鉄製大砲鋳造されたが、せっかく鋳造され大砲多く不良品であった鉄製大砲の鋳造上手くいかない原因は、これまでの日本製鉄原料となっていた砂鉄大砲砲身材料としては不向きで、岩鉄すなわち鉄鉱石用い必要がある考えられた。 当時水戸藩徳川斉昭強硬な攘夷思想持っており、攘夷を果たすことを目的として反射炉建設して鉄製大砲鋳造することにした。しかし斉昭の強硬な攘夷思想の影響もあって、水戸藩内には蘭学など西洋技術学んだ人材がいなかったため、南部藩士の大島高任など、藩外部から人材派遣受けて反射炉建造進めることになった大島高任鉄製大砲の鋳造には鉄鉱石用い必要がある判断していた。安政3年1856年)、大島中小坂鉄山鉄鉱石鑑定し大砲鋳造用の原料として極めて優秀な鉱石であるとした。そこで中小坂鉄山、約1800貫目数回分けて那珂湊建設され水戸藩反射炉用いるために運ばれることになった安政3年7月22日1856年8月22日)、那珂湊反射炉中小坂鉄山銑鉄354貫目装入されたが、炉内で上手く融解進まず中小坂鉄山では大砲鋳造成功しなかった。同じく安政3年1856年)、水戸藩より中小坂鉱山現地調査が行われ、鉄鉱石精練を行うための高炉建設を、中小坂鉱山現地水戸藩領内のどちらで行うのが有利であるかについて調査が行われた。調査鉱石運搬する費用木炭石炭価格、そして人件費比較して中小坂水戸藩領内のどちらがコスト的に安価に済むか検討なされた。しかし水戸藩財政難のために中小坂鉱山鉄鉱石利用する高炉建設行われることがなく、安政5年1858年)からの安政の大獄の中で、水戸藩反射炉用いた大砲鋳造事業中断されることになった中小坂鉄山では、水戸藩反射炉大砲鋳造するためのを得るための採掘等は安政5年1858年以降行われなくなった考えられるが、安政5年1858年)から文久年間1861年-1864年)にかけて、中小坂鉄山試掘続けられていたことを示す文書残されている。

※この「水戸藩の反射炉と中小坂鉄山」の解説は、「中小坂鉄山」の解説の一部です。
「水戸藩の反射炉と中小坂鉄山」を含む「中小坂鉄山」の記事については、「中小坂鉄山」の概要を参照ください。

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