大澤 勉とは? わかりやすく解説

大沢勉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 05:01 UTC 版)

大沢 勉
基本情報
国籍 日本
出身地 秋田県能代市
生年月日 (1948-05-23) 1948年5月23日
没年月日 (2024-07-12) 2024年7月12日(76歳没)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1970年 ドラフト7位
初出場 1971年4月13日
最終出場 1976年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大沢 勉(おおさわ つとむ、1948年5月23日 - 2024年7月12日[1])は、秋田県能代市[2]出身のプロ野球選手捕手)。

来歴・人物

秋田県立能代高等学校で野球部に入り、厳しい練習を耐え抜いて2年生から試合に出るようになった当初は一塁手を務めていた[3]。2年生夏の全国高等学校野球選手権西奥羽大会3回戦(対秋田県立金足農業高等学校)では、同点の9回裏2死満塁の場面で、三塁手山田久志が自分の前に来たゴロを大沢のいる一塁に悪送球してサヨナラ負けを喫する[3]。大会後に大沢は捕手への転向を指示され、同じく投手への転向を指示された山田とバッテリーを組んだ[4]。新チームに捕手が不在だったことから、肩の強い部員が本塁からの二塁送球を試された結果指名されたという[5]。3年生の時には二人は県内でも評判のバッテリーとなったが[4]、甲子園には届かなかった。

高校卒業後は、社会人野球日本鉱業日立に入社する。社会人野球に進む際、大沢は山田とともに入社テストを兼ねた練習に参加したが、事前の予想に反して大沢のみが合格となる(山田は富士製鐵釜石に入部)[4]。その後対戦した折には山田の速球に三振を喫し、その成長ぶりに驚いたという[6]

1970年都市対抗野球日立製作所の補強選手として出場[7]

1970年のプロ野球ドラフト会議東映フライヤーズから7位指名を受け入団[2]

1971年4月には初の先発マスクを被り、1974年シーズン終盤には6試合に先発出場を果たす。しかし、その後は出場機会に恵まれず1976年限りで現役を引退[2]。入団3年目の2軍戦で左膝の靱帯を切る負傷をしたことも影響した[8]

引退後は岩手県盛岡市を拠点とする化粧品の営業職を25年務めた[8]。退職後、秋田市に少年硬式野球チームの立ち上げに関わり、その後は能代シニアの監督を務めた[8][9]

2024年7月12日午後5時10分、胆管がんのため死去。76歳没[1]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971 東映
日本ハム
16 8 8 0 1 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 4 0 .125 .125 .125 .250
1972 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1974 10 17 14 1 4 1 0 0 5 1 0 1 2 0 1 0 0 5 0 .286 .333 .357 .690
1976 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:4年 30 28 25 1 5 1 0 0 6 1 0 2 2 0 1 0 0 10 0 .200 .231 .240 .471
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

年度別守備成績

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1971 16 8 4 .333
1972 1 0 0 -
1974 10 5 3 .375
1976 3 1 0 .000
通算 30 14 7 .333

背番号

  • 25 (1971年 - 1974年)
  • 51 (1975年 - 1976年)

脚注

  1. ^ a b “大沢 勉さん(おおさわ・つとむ=元プロ野球東映、日拓、日本ハム捕手)”. 秋田魁新報電子版. (2024年7月18日). https://www.sakigake.jp/news/article/20240718AK0009/ 2024年7月21日閲覧。 
  2. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、101ページ
  3. ^ a b 読売新聞阪神支局 2019, pp. 376–377.
  4. ^ a b c 読売新聞阪神支局 2019, p. 378.
  5. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 410.
  6. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 379.
  7. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  8. ^ a b c 読売新聞阪神支局 2019, pp. 411–412.
  9. ^ BALLPARK AKITA 大沢勉

参考文献

関連項目

外部リンク


大澤勉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 01:58 UTC 版)

大澤 勉(おおさわ つとむ、1957年 - )は、日本外交官

ヒューストン総領事瀋陽総領事、在ウィーン国際機関日本政府代表部大使等を経て、カメルーン駐箚特命全権大使

経歴・人物

愛知県名古屋市生まれ。1975年東京教育大学附属高等学校卒業。1978年外務公務員上級試験合格。

1979年東京大学経済学部卒業、外務省入省。アジア局中国課、大臣官房総務課で勤務したのち、1980年から南京大学香港中文大学で中国語研修を受けたチャイナ・スクール。

1982年から1983年までハーバード大学大学院に留学し、修士号を取得。

1986年、アジア局北東アジア課課長補佐。1987年、在中華人民共和国大使館二等書記官。1989年、在中華人民共和国大使館一等書記官。1990年、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部一等書記官。1994年、アジア局地域政策課首席事務官。

1995年、大臣官房総務課企画官。1995年、大臣官房査察室長。1997年、内閣内政審議室内閣審議官。1999年、領事移住部邦人保護課長。2000年、在香港日本国総領事館首席領事。2002年、在大韓民国大使館参事官。

2003年、在大韓民国大使館公使。2005年、内閣衛星情報センター総務課長。2007年、儀典総括官。2007年、両陛下ヨーロッパ御訪問準備室長。2007年、在ヒューストン総領事。2010年、在ウィーン国際機関日本政府代表部大使。2013年、在瀋陽総領事[1]

2016年、国家公務員共済組合連合会監事。2018年、駐カメルーン[2]チャド中央アフリカ共和国特命全権大使[3]。2022年、外務省記録審査員[4]

脚注

  1. ^ 「Whenever誌面コンテンツ 在瀋陽日本国総領事館 総領事 大澤 勉さん osawa tsutomu 」Whenever大連ローカル
  2. ^ https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34664230Y8A820C1PP8000/ エチオピア大使に松永氏 ]日本経済新聞2018/8/28 10:36
  3. ^ 「人事、外務省 」日本経済新聞(2018/12/14 18:19)
  4. ^ 特別職国家公務員の再就職状況の公表について(令和4年4月1日~令和5年3月31日)
先代
山本広行
外務省儀典総括官
2007年
次代
宮川学




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大澤 勉」の関連用語

大澤 勉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大澤 勉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大沢勉 (改訂履歴)、大澤勉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS