大日本体育協会役員
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オーギュスト・ジェラール(フランス語版)からオリンピック参加を打診された嘉納治五郎は、日本体育会(現・学校法人日本体育大学)の加納久宜に斡旋の交渉を行うが失敗に終わり、当時スポーツが盛んであった東京帝国大学(現・東京大学)総長の濱尾新、早稲田大学学長の高田早苗、慶応義塾塾長の鎌田栄吉に呼び掛けて体育団体の設立を図った。その結果、東京帝国大学書記官の中村恭平、早稲田大学教授の安部磯雄、慶應義塾講師の飯塚国三郎、そして東京高師の永井道明・可児徳・嘉納治五郎が集まって、1911年(明治44年)7月に大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を創立した。創立時の役員の中で、オリンピックを実際に見たことがあったのは道明だけであり、日本のオリンピック参加という課題に対して道明はうってつけの人材であったと言える。道明は創立から1915年(大正4年)までと1927年(昭和2年)に理事、1913年(大正2年)から1925年(大正14年)までと1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)まで評議員を務めた。 大日本体育協会の最初の事業である国際オリムピック大会選手予選会では、道明は幹事として臨み、1912年(明治45年)2月15日の代表選手選考にも参加した。また道明は大日本体育協会の規約原案を作成し、1912年(明治45年)5月11日の決議を経て正式な規約となった。ただしこれはストックホルムオリンピックに選手・役員を送り込むための暫定的なもので、1913年(大正2年)9月26日に改正された。
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