大夏大学校長、交通部長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/03 15:47 UTC 版)
「王伯群」の記事における「大夏大学校長、交通部長として」の解説
王伯群は政治活動の傍らで、1924年(民国13年)夏に馬君武らとともに上海で大夏大学を創設した。これは厦門大学の学生デモに対する北京政府の弾圧の影響で、修学の場や職場を失った学生・教師を救済するためのものである。1926年(民国15年)冬、王は馬の後任として大夏大学の校長となった。 蒋介石が上海クーデター(四・一二政変)を起こし、南京国民政府が成立すると、王伯群はこれに加わり、交通部部長に任ぜられた。初代交通部長として王は各事業の基礎作りに取り組み、特に電信・航空などで顕著な成果が見られる。しかし1931年(民国20年)12月、アヘン密貿易に関わったと弾劾されたことにより、交通部長辞任に追い込まれた。その後、川滇黔視察専員、行政院駐平政務整理委員会委員を歴任している。 日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、大夏大学と復旦大学は奥地へ移転することになる。王伯群は教育部と協力して移転事業を進め、両大学の第一聯合大学を江西省の廬山(後に重慶へ更に移転)に、第二聯合大学を貴陽に移転させた。同年12月、王は後者の校長となり、さらに後に第一聯合大学が復旦大学、第二聯合大学が大夏大学と指定された。王は戦争最中ながら、学生への指導と教育プログラムの充実に取り組んでいる。1944年(民国33年)12月20日、王伯群は重慶の江北陸軍医院で胃潰瘍が原因で死去。享年60(満59歳)。
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