大八の虚偽の発覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:22 UTC 版)
翌慶長16年(1611年)、日本との外交接点を失ったポルトガルは貿易再開を図るため、薩摩藩の援助を得て、国副王代として艦隊司令官マヨールを駿府の家康と江戸の秀忠に謁見させた。このとき先のマカオでの事件の弁明とともに、藤広の罷免、船の賠償を求めたが、幕府側は全てペソアの責任として取り合わず、貿易の再開だけを認めた。 こうした経緯は大八、藤広を通じて家康に報告されていた。 晴信には、龍造寺氏との代々の争いで生じた失地を回復するという有馬氏の悲願があった。ポルトガルへの報復を果たし、伽羅も献上できたことで、晴信は褒賞による領地の回復に期待を寄せていた。一方、先んじて伽羅献上を達成したことから、藤広との間には不和が生じることとなった。藤広は幕府側の先買権を強化するため、有馬氏(晴信)と関係が深かったイエズス会ではなく、対立するドミニコ会に接近したが、こうした動きはますます晴信の不満を募らせた。藤広がデウス号の時間をかけた攻撃を「てぬるい」と評したことに腹を立て「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであった。大八はこうした晴信の思惑と懐疑につけこんだ。 大八は晴信と同じくキリシタンであった。家康への報告から戻った大八を、晴信は饗応した。このとき大八は、「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」と虚偽を語り、仲介のための資金を無心した。晴信は家康側近の正純の働きかけがあれば、これらの旧領の回復は揺るぎないと考え、大八の所望に応じてしまった。大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称してだまし取った。 やがていつまでも褒賞の連絡がないことに業を煮やし、晴信は自ら正純のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚することとなった。
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