大丁と加勢丁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
大丁とは、役七夕を催行するにあたっての町組の中での当番であり、祭りの諸事一切を取り決めて加勢丁を主導し、七夕灯籠の運行では最後尾を務める。大丁と加勢丁の立場の違いは七夕灯籠の鯱飾りにも表れており、大丁の鯱はヒレを張り出したギザギザの尾で、加勢丁のそれはなだらかな丸みがつけられ、鯱の尾の部分に雲が書き入れられている。一方、町組の中での親町の立場は、儀礼化されている大丁と加勢丁の連絡・応接の中で、権威として色濃く残っている。枝町が大丁を務める場合、親町から正式な大丁要請の使者が来て、それを受諾し使者をもって返答することではじめて大丁として振る舞えるのである。なお、本段落冒頭で「大丁とは、役七夕を催行するにあたっての町組の中での当番」と記したが、この意味合いで大丁という語を用いるのは上町組、万町組、清助町組、柳町組であり、大町組では役七夕の当番を指して「親丁」と言い、町組の中の親町を指して「大丁」と言っており、用語の意味合いが逆転している。昭和30年代から40年代にかけての新聞報道でもしばしば七夕の当番町を親町(親丁)と記したものがあったり、大丁という語句を用いず単に当番町(当番丁)と記すケースも多くみられることから、親丁と大丁の用語の意味と語法は絶対的なものでなく、慣習や時代の経過によって変化しうるものと考えられる。 役七夕の実行組織である「若」の内部では、上下関係が厳格に守られており、8月1日の会所開きをはじめとして、行事の節々で厳粛な作法が求められる。その一方で、五町組間での引継ぎは行われず、毎年祭りが終わると暗黙の了解のもと翌年の組に引き継がれているのである。大町組、上町組、万町組、清助町組、柳町組というローテーションは明治中期以降暗黙の裡に引き継がれ続けてきたものであり、またこれら五町組を横断する組織も存在しない。しかし、旧能代港町の町割りに沿った五町組の枠組みは、その後の市街地の拡大に必ずしも対応するものでなく、五町組の改革は役七夕を全市的な行事に改めるための七夕改革論の焦点として、後々まで横たわることになるのである。
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