多胡碑の「羊」なる者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:56 UTC 版)
多胡碑によると「和銅4年に近隣3郡から300を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある。ただし、多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている。 「羊」が人名であるとした場合、その正体は、 藤原不比等本人であるとする説(関口昌春提唱) 「羊」は物部氏の祖神の名である経津主の転であり、物部氏の後裔であるとする説(吉田説) 秦氏に連なる渡来人とする説。(久保有政説) 「火」を神聖視した伝承が羊神社にあることから、ゾロアスター教に関係がある、中央アジア系渡来人であるとする説。 キリスト教関係の遺物が多胡碑から発見されたことから景教(ネストリウス派キリスト教)教徒説 ユダヤ人系キリスト教徒説。(日ユ同祖論説) など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、その逸文も発見されていない。流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない。ただし久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している。 『日本書紀』によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、臣下に当たる「羊」が300戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる。
※この「多胡碑の「羊」なる者」の解説は、「多胡羊太夫」の解説の一部です。
「多胡碑の「羊」なる者」を含む「多胡羊太夫」の記事については、「多胡羊太夫」の概要を参照ください。
- 多胡碑の「羊」なる者のページへのリンク