城資盛・越後の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:06 UTC 版)
乱は単発では終わらず、同時期の正月下旬に長茂の甥である城資盛と長茂の姉妹で資盛の叔母にあたる板額御前ら城一族が本国の越後国蒲原の鳥坂城で反乱を起こしていた。越後国守護は佐々木盛綱であったが、頼朝死後の幕府の内紛により、加持荘の地頭を罷免されて上野国碓氷郡に籠居しており、城氏挙兵の絶好の機会であった。資盛は近隣の地頭を攻略し、雪どけの3月に入って北国の武士を集って本格的に戦闘が始まった。 4月2日、城郭を構えて鳥坂城に立て籠もる資盛を、近国の御家人らが襲撃するも、抵抗をうけてことごとく敗北した事が幕府に報告されると、北条時政・大江広元・三善康信入道が参会し、上野国にいる佐々木盛綱に越後国の御家人を招集して城氏討伐にあたるよう飛脚が出された。 4月5日、磯部郷にいた盛綱は即座に出発し、郎党が後から追いかける早さで8日には城氏の勢力圏である鳥坂口に到着した。盛綱は越後、佐渡、信濃国から参じた御家人たちを編成して阿賀野川を渡った。 盛綱は資盛に軍使を使わすと、資盛は鳥坂城の付近で戦闘を行うと返答。資盛の軍勢は1,000人たらずであり、多勢の幕府軍に対して最初から守りの姿勢をとった。 5月はじめに戦闘が開始され、城氏が立て籠もる鳥坂城は帯曲輪に木柵が巡らされ、空堀には逆茂木が立ち並び、城から矢石が飛び、幕府軍は多数死者を出した。その中で盛綱の子佐々木盛季と海野幸氏は先駆けを争って負傷した。犠牲者を出しながらも幕府軍は曲輪に迫った。その際、板額御前は髪を結い上げ腹巻きを身につけて矢倉の上に立ち、次々に敵を射殺してその腕は百発百中であったという。信濃国の武士藤沢清親によって板額が両股を射られ、倒れたところを捕らえられると、資盛方は敗北し、本城の白鳥城は5月8,9日に陥落した。 その後、資盛は消息不明となり、平維茂以来、越後国で栄えた名族・城氏は滅亡した。
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