城ヶ島の大火とは? わかりやすく解説

城ヶ島の大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:11 UTC 版)

城ヶ島」の記事における「城ヶ島の大火」の解説

城ヶ島では1808年1936年大火発生しているが、本稿では1936年2月2日発生した大火について述べる。 1936年2月2日午前2時30分頃、城ヶ島集落西端から出火した出火当時風速10メートル越え西風吹いており、炎は藁葺き屋根伝って瞬く間全集落に広がった当時三崎城ヶ島間の交通は舟のみであったが、三崎から消火救援漕ぎ出た船は波をかぶって転覆警官電灯会社員泳いで島に辿り着いたという。また桟橋がなかったため、ガソリンポンプを運ぶ舟がポンプ降ろし終えた時には既に出火30分以上が経過しており、手が付けられない状況であった要塞施設延焼の危険があったが、午前6時になってようやく鎮火被害全島119戸中焼失106半焼大破3、被災者591人というもので、文字通り焦土化した。 尚、三崎消防組小頭藤井助次郎筒先石橋三郎の2名が放水中に3,300ボルト電灯高圧線触れて感電殉職している。 被災者対す支援として白米72俵の炊き出しが行われ、女学校生徒交代毎日手伝った炊き出し当初12日間の予定であったが、罹災家屋保険金支払遅延のため8日延長された。陸軍第1師団師団長堀丈夫中将)からも戦時備蓄食料乾麺携帯罐詰肉、醤油エキス提供されている。 また、分教場民家から離れていたため延焼免れたが、臨時休校した。この分教場旧城ヶ島分校海の資料館として現存している。当時前述の『城ヶ島』によって全国に名を知られていた城ヶ島の大火はショッキングな事件であったようで、『東京日日新聞』は「名勝城ヶ島の大火、全島廃墟化す」と題した号外発行して大きく報じている。

※この「城ヶ島の大火」の解説は、「城ヶ島」の解説の一部です。
「城ヶ島の大火」を含む「城ヶ島」の記事については、「城ヶ島」の概要を参照ください。

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