板東俘虜収容所
(坂東俘虜収容所 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/20 03:48 UTC 版)
板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ、旧字体:板東俘虜收容所、ドイツ語:Kriegsgefangenenlager Bandō)は、第一次世界大戦(日独戦争)期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。
- ^ a b 史跡等の指定等について(文化庁サイト、2018年6月15日発表)、平成30年10月15日文部科学省告示第189号
- ^ a b c “ドイツ人俘虜収容所”. 似島臨海少年自然の家. 2018年1月20日閲覧。
- ^ a b 志村章子「鳴門市ドイツ館で初のガリ版印刷物が主役のイベント(上)坂東俘虜収容所の謄写印刷物再現まで」 - Web謄写印刷館(2000年12月29日、タイトルの「坂東」は原典のママ)2023年9月
- ^ 日本郵趣協会 [@kitteclub] (2015年8月25日). "2015年8月25日のツイート" (短文投稿). X(旧Twitter)より2023年9月20日閲覧。
- ^ 『Ruhe』創刊号 - 鳴門市ドイツ館
- ^ a b c d e f “【ドイツ兵捕虜との100年】ドイツ人としての誇りが持てた…日本での収容所生活を感謝する元ドイツ兵、交流は今も 鳴門市ドイツ館館長・森清治さん - 産経WEST”. 産経WEST (産経新聞社). (2016年12月14日) 2018年1月20日閲覧。
- ^ a b c 週刊新潮WEB取材班「ドイツ兵捕虜たちが“感謝"した徳島「板東俘虜収容所」 称賛される人道的な扱い - デイリー新潮」『デイリー新潮』、新潮社、2019年1月23日、2019年2月26日閲覧。
- ^ a b “70年の供養 日独つなぐ : 地域 : 読売新聞オンライン”. 読売新聞オンライン (読売新聞社). (2018年5月24日) 2019年2月26日閲覧。
- ^ “父建立の捕虜慰霊碑を訪問 元独総領事・ロエルさん三男”. 徳島新聞. (2016年2月1日) 2016年2月3日閲覧。
- ^ 斉藤邦彦(鳴門市 前ドイツ館館長)「亡き冨田先生の面影をしのび」〔名古屋市瑞穂区高田町3-28 愛知県立大学外国語学部ドイツ語研究室気付 冨田弘先生遺著刊行会編集兼発行『追想 冨田弘』1990年8月3日、192-194頁〕
- ^ “板東俘虜収容所 開設100年で式典”. 徳島新聞. (2017年4月10日) 2018年1月21日閲覧。
- ^ “日独結ぶ、友愛の絆 収容所史実、次世代につなぐ 鳴門で記念式典”. 毎日新聞. (2018年6月2日) 2018年6月5日閲覧。
- ^ “第九 鳴門で初演100周年 再現に喝采 歓喜の歌声響く”. 毎日新聞. (2018年6月3日) 2018年6月5日閲覧。
- ^ 鳴門市 (2008年4月). “広報なると2008年4月号(板東俘虜収容所 遺構を確認)”. 2015年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月2日閲覧。
- ^ a b “捕虜作成の測量図「正確」 板東収容所跡調査まとめ”. 徳島新聞. (2012年4月24日). オリジナルの2015年4月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “板東俘虜収容所跡の国史跡申請 ブランド化推進協、基本計画まとめる”. 徳島新聞. (2015年2月17日). オリジナルの2017年10月3日時点におけるアーカイブ。
- ^ “徳島・板東収容所跡 国史跡に指定 官報告示”. 徳島新聞. (2018年10月16日) 2018年10月18日閲覧。
- ^ 「板東俘虜収容所関係資料」ユネスコ記憶遺産プロジェクト - 新規事業の概要(徳島県ウェブサイト、2016年)
- ^ 元のバラッケは平面の形が長辺70mという細長い建物であったため、払い下げは切断された形でおこなわれている。
- ^ “安藝家バラッケ(旧板東俘虜収容所)”. 文化庁. 2016年1月31日閲覧。
- ^ “柿本家バラッケ(旧板東俘虜収容所)”. 文化庁. 2016年1月31日閲覧。
- ^ バルトの楽園 新ロケ村オープン[リンク切れ] 徳島新聞 2010年4月26日
- ^ “バルトの庭、閉園を惜しむ 最終日、県内外から観光客100人”. 徳島新聞. (2015年5月8日) 2015年6月5日閲覧。
- ^ a b 概要 - 鳴門市賀川豊彦記念館
- 1 板東俘虜収容所とは
- 2 板東俘虜収容所の概要
- 3 遺構
- 4 周辺
- 5 外部リンク
- 板東俘虜収容所のページへのリンク