坂本龍馬への尊敬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 08:43 UTC 版)
慶応3年に龍馬が暗殺されたときには(近江屋事件)、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだした。谷によれば、中岡は「人をたくさん斬っている新選組の仕業だろう」「犯人は『コナクソ』と言った」と証言している。谷はこの後、新選組と対立し、リーダー格の伊東甲子太郎らが殺害されたばかりの御陵衛士のメンバーと会談し、現場に残されていた鞘が新選組隊士原田左之助のものであるという証言を得ている。 戊辰戦争の際には、流山で捕らえた元新選組局長近藤勇の処遇について、薩摩藩の平田宗高と対立した。平田は一軍の将であるから一旦生かしたまま京都に送るよう述べたが、谷は浮浪の者の頭に過ぎないと斬首を主張した。最終的には、近藤を許すことは甲府城に籠った柴田監物らを許すのと同じことだと議決し、近藤は斬首して京都に送ることとなった。しかし谷は官軍と戦闘を行った甲陽鎮撫隊の動きが勝海舟や大久保一翁、山岡鉄舟らの指示によるものではないかと考え、拷問にかけ、背後関係を調べるよう主張したが、平田は江戸城開城を控えたこの時期に問題を起こすべきではないと反対した。最終的に近藤は厳しい取り調べを受けることなく斬首され、谷は自分の論が孤立無援であり、薩摩藩にたぶらかされていると不満を書き連ねているが、近藤に関して触れた部分では坂本について一言も触れていない。 斬首・獄門という惨刑に処したのも谷である[信頼性要検証]が、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。 明治33年(1900年)、かつての見廻組の1人であった今井信郎が龍馬暗殺に関与したという手記が発表された。この手記は取材を行った結城禮一郎に誇張されていたこともあり、雑誌でこれを見た谷は「売名の徒」と非難し、暗殺の犯人の研究をするなら今井の言うことが間違いであると確認してからにしてほしいと述べている。
※この「坂本龍馬への尊敬」の解説は、「谷干城」の解説の一部です。
「坂本龍馬への尊敬」を含む「谷干城」の記事については、「谷干城」の概要を参照ください。
- 坂本龍馬への尊敬のページへのリンク