国防長官時代とは? わかりやすく解説

国防長官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:40 UTC 版)

ロバート・マクナマラ」の記事における「国防長官時代」の解説

1960年アメリカ合衆国大統領選挙勝利したジョン・F・ケネディは、前任アイゼンハワーより国防政策能力欠けているとされていた。ケネディエスタブリッシュメント重鎮であるロバート・ロベットに主要閣僚への就任要請した。ロベットは健康状態理由にこれを辞退しマクナマラ国防長官推薦したケネディ義弟のサージェント・シュライバー(英語版を介して社長就任から5週間しか経過していないマクナマラコンタクト取った当初マクナマラは「自分第2次世界大戦後軍事事情詳しくないので、国防長官勤まらない」と要請断ったが、ケネディは「大統領になるための学校だってない。けれどもアイゼンハワー大統領会ったら、自分にも出来ると自信持てた」と答えマクナマラワシントン社交界出入りしなくてよいこと、自分部下自分で選ぶことを条件として国防長官就任受諾したマクナマラ国防に関する最新知識をあまり持ち合わせていなかったが、直ぐにそれらの勉強始め自身役割把握し積極的な活動始めた1961年3月28日行われたケネディ大統領議会への最初一般教書演説において、マクナマラ国防政策改革盛り込むように提案した。その骨子は、十分な戦略兵器配備することでアメリカおよび同盟国への核攻撃思いとどまらせ、先制攻撃辞さないとした。ケネディはそれを拒否しアメリカ軍文民統制下に常に置かれるべきで、国防体制不合理な戦争偶発的戦争の勃発危険性を減らす方向で行かなければならない考えていた。 1962年10月起きたキューバ危機において、マクナマラジョン・マコーンCIA長官、マックスウェル・テイラー統合参謀本部議長強硬派と共にキューバへの先制攻撃キューバ内のミサイル基地破壊キューバへの空襲・それに伴うキューバの上陸の実施)を唱えていた一方でキューバ周辺公海上の封鎖キューバに向かうソビエト連邦船舶海上査察提案し、(後に海上査察という言葉ソ連との戦闘状態に突入していなかったので、海上臨検置き換えられた。)これはケネディ大統領承認受けた。これは10月24日実行移されソビエト連邦船舶との戦闘状態を起こす事無く海上封鎖臨検成功した。また彼以上に強硬論唱えるカーチス・ルメイ空軍参謀総長、ジョージ・アンダーソン・ジュニア(英語版海軍作戦部長らを抑える事にも尽力した

※この「国防長官時代」の解説は、「ロバート・マクナマラ」の解説の一部です。
「国防長官時代」を含む「ロバート・マクナマラ」の記事については、「ロバート・マクナマラ」の概要を参照ください。

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