国立療養所中野病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:29 UTC 版)
「国立国際医療研究センター」の記事における「国立療養所中野病院」の解説
国立療養所中野病院は1920年、東京市の肺結核療養所(サナトリウム)として豊多摩郡野方村大字江古田に建設された。建設に際しては地元住民の激しい反対運動が起こった。新聞は「百姓一揆」と書いたがそれほど大袈裟なものではなかった。つまり通常起こりうる反対運動はあったが一揆というような暴動ではなかった。 なお『創立五十周年記念誌』には7か所にわたり「かつて江古田城(本田城、本多山城とも)があった」という記述があるが、そのような史実はなく、地元民による伝承もない。なお『七十年記念誌』からはこの記載がほぼ消えたものの、国立国際医療センターの5周年記念誌で再び江古田城への言及があった。また城への言及があっても城主への言及はないことも言説の特徴である。 1943年に日本医療団に統合された後、1947年に国立療養所に転換、数度の拡張工事を経た後に、1965年には地上10階地下1階の病棟を有する施設となった。1974年頃より国立胸部疾患センターの構想を打ち出し、1979年には胸部疾患基幹施設に認定され、日本における胸部疾患の中心施設となる見込みであった。1981年頃の写真では英語名が NAKANO NATIONAL CHEST HOSPITAL とされている。なお2010年現在、呼吸器疾患における高度専門医療施設としての役割は、大阪府堺市の国立病院機構近畿中央呼吸器センターが担っている。 国立療養所中野病院廃止時の地番は、東京都中野区江古田3丁目14番20号。廃止時には結核患者のほか、一部の病床に循環器病患者も入院していた。跡地については中野区へ譲渡となったが、私立学校教職員共済組合も当時、台東区根岸にあった下谷病院の当地への移転を宣伝したパンフレットを作成している。2007年に跡地は江古田の森公園として整備され開園した。
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