国泰寺町移転から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 15:25 UTC 版)
「広島市役所」の記事における「国泰寺町移転から現在まで」の解説
1927年頃(昭和初頭)の廣島市の地図 / 市役所は地図中央やや左の、国泰寺町移転以前の旧位置(中島新町)に記載されており、現在地である「市公会堂」南側には所在していない 1945年の米軍作成による広島市地図 / 現在地に所在する"City Hall"(市役所)が確認できる。 原爆被災後の航空写真。現在の中区吉島付近から北方向を望む。写真中央やや右を縦断する太い道が鯉城通り、その下の橋が南大橋。その一つ上の交差点が鷹野橋交差点でその上に見える建物が市役所。 1921年制定の(旧)都市計画法による隣接7町村の編入合併(1929年4月に施行)が現実化すると、中島新町の庁舎では手狭になることが予想されたため、市役所の移転が計画されるようになった。その結果、移転先の敷地として選ばれたのは、国泰寺町の市公会堂(現存せず)南隣の市立高等女学校跡地であった。 増田清により設計された新しい庁舎は、地上4F・地下1Fの鉄筋コンクリート造建築で、1928年(昭和3年)4月14日、中島新町の初代庁舎からの移転が挙行された(これにより付近の広島電鉄電停の名称は「公会堂前」から「市役所前」となった)。 1945年8月6日の原爆被災で、爆心地から南に約1kmに位置していた国泰寺町の庁舎は大きな被害を受け、窓ガラスが飛び内部は全焼、当日庁舎内にいた者のうち約30名は年内に死去した。しかし耐震建築であったため構造的な被害はなく、直後から市民の救護所となった。また市の中心部からやや離れた比治山西麓の山陽文徳殿に前もって疎開させていた戸籍原簿は難を逃れ、しばらくの間ここで戸籍業務が行われた。被爆した庁舎は第二次世界大戦後も一部の修復を経て長く使用され、1985年に新庁舎建築により一部(地下室)を除き取り壊された。
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