喜多六平太の輔導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:07 UTC 版)
一方その頃、東京では12世能静の死と維新期の混乱により、当主不在が続く喜多宗家が廃絶の危機にあった。また流儀の元老であった松田亀太郎も一時は渡し守で生計を立て、三郎の同門だった紀淑真も警察勤めの日々を送るなど、喜多流全体が不遇に喘いでいた。しかし能楽復興の流れの中、喜多流の門人たちも1879年(明治12年)、能静の外孫で当時7歳の千代造(1894年(明治27年)に六平太襲名)を14世宗家に立て、流儀の再興を図ることとなる。 六平太の稽古は当初、松田亀太郎、紀喜和(淑真の父)、喜多文十郎といった人々の手になっていたが、より本格的な稽古を、ということになった際、まず候補に挙がったのが、三郎であった。しかし三郎はこれを固辞し、先輩格に当たる福岡の梅津只円を推薦した。これにより只円は1892年(明治25年)上京する。 しかし三郎自身も1897年(明治30年)、松山で六平太が能を舞うこととなった際、同地まで出かけて、六平太に稽古をつけることとなった。六平太によると、三郎は周囲に人がいるうちは「結構です」としか言わず、六平太も「このぢいさん何をしてもほめるな」と不審に思っていたが、2人きりの稽古となると「いやしくも家元にならうとする人が、そんな芸でどうする」「家元といふものはそんな品の悪い芸を舞つてはいけません」と厳しく指導し、六平太を驚かせたという。 家元擁立の経緯から六平太は多くの師匠に教えを請うこととなり、その芸風・指導方針の違いに苦しんでいだ。のちに六平太はそれらを比較した結論として、三郎の「人が見てくれるとか、人に賞められるとか、さういふことを頭に置いてゐてはいけない、家元の芸といふものは、第一に正しく、真っすぐな芸といふことを心がけなくてはいけない」という言葉を引き、後進の稽古法としては、松田亀太郎・友枝三郎式の、自分の癖などを出さないように心がけ、あくまで流儀の正当な芸を教え込む、というやり方が最良である、と語っている。 この松山での対面以後六平太とは肝胆相照らす仲となり、幾度か上京して流儀を支えた。3年にわたり東京に滞在したこともあったが、最終的には熊本に戻り、能評家・坂元雪鳥などこれを惜しむ声も少なくなかった。
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