周溝出土の馬具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:32 UTC 版)
『魏志倭人伝』では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕からは馬具(木製の輪鐙)が出土している。 桜井市教育委員会が2000年(平成12年)に実施した纒向遺跡第109次発掘調査で、周濠内の覆土(植物層)上層から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留Ⅰ式土器により4世紀初頭頃のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。なお、周濠が機能停止し埋没し始めた後に堆積した土層からの出土であることから、古墳本体の築造年代論とは直接関連しない。 確認できる最古の鐙は302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出土した騎馬俑の片側のみ。このため鐙が発明されたのは290~300年頃とされる。漢字で鐙を「金編に登」と表すのは、初期の鐙が金属製で乗馬の際の足がかりとしてのみ使用されたことに由来する。木製鐙は鉄製鐙のあとに登場した。確認される最古の木製輪鐙は朝鮮半島は百済時代初期(4世紀前半)の天安斗井洞の木芯鉄板張輪鐙とされる。小野山節が「日本発見の初期の馬具」で木芯鉄板張輪鐙を古式と新式の2種に分類している。これによると箸墓古墳の周濠から出土した輪鐙は下部が欠損してるため確認出来ないが、残っている部分で判断すると 柄が細長い。 柄の頭が角ばる。 など新式の特徴が見受られる。 4世紀前半は中国で鐙が発明された直後であり、この時期の騎馬俑には小さな鉄製と思われる鐙が確認できるが、これらには乗馬の際の足掛けとしての機能しかなかった。朝鮮半島で出土した百済前期(4世紀前半)とされる最古の木製輪鐙は木型に鉄板を貼り馬の操縦に適した機能を持たせるなど劇的な改良が見られる。木製鐙が開発されたと考えられている高句麗周辺の壁画古墳からは5世紀以降にならないと木製鐙が確認されない。鐙が朝鮮半島に伝わった時期を考慮してもこれを4世紀前半とするには疑わしく、百済が中央集権国家になったのは4世紀半ば以降であることからも、この木製鐙は4世紀半ば以降とする方が妥当である。さらにこれが日本に伝わった時期を考慮すると箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし5世紀以降とする方が望ましく、その特徴が後世的であることもこれを裏付けるものとなっている[要出典]。
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