名鉄社長に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 10:18 UTC 版)
藍川率いる愛電は大正末期まで好業績を挙げていたが、昭和に入ると不況の影響により停滞した。昭和恐慌や満州事変を背景に各地で交通事業の統制が進む中、愛知県の二大鉄道会社である愛電および名岐鉄道(名古屋電気鉄道の後身で愛知県西部から岐阜県にかけて路線網を広げた)についても合併論が起こるようになる。1934年(昭和9年)より両社の間では交渉が持たれ、翌1935年(昭和10年)2月合併仮契約書に調印、同年8月1日付で名岐鉄道と愛電の合併が実行され、名岐鉄道が存続会社となって名古屋鉄道(名鉄)に改称、愛電は解散した。新発足した名鉄は愛知岐阜両県にまたがる約360kmの鉄道路線を擁する私鉄となった。当初の予定では合併に際しては名岐鉄道社長の跡田直一が新会社の社長に就任するはずであったが、合併直前の7月に跡田が死去したため、副社長に内定していた藍川が繰り上がって名鉄初代社長に就任した。 発足なった名鉄で藍川は、新ターミナルである新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)および旧名岐鉄道線と旧愛電線をつなぐ東西連絡線(現在は名古屋本線の一部)の建設、三河鉄道など愛知・岐阜両県下に残る中小私鉄の統合、傘下バス事業者の統制などに尽力した。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、1935年以来社長の座にあった藍川は取締役会長となり、副社長であった名岐鉄道出身の神野金之助が新たに取締役社長に就任した。社長を引退した藍川は74歳の高齢であった。終戦後の1946年(昭和21年)5月には会長からも退き、相談役に推挙された。 1948年(昭和23年)9月7日、新舞子の自邸で死去。名鉄から退いた藍川は名鉄系の関係会社からも退いていたが、豊橋電気軌道(現・豊橋鉄道)の社長は死去するまでその座にあった。
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