司祭と教職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:33 UTC 版)
「ステファン・ヴィシンスキー」の記事における「司祭と教職」の解説
ヴィシンスキーは司祭になった後、ポーランドのカトリック信者らの崇敬地であるチェンストホヴァのヤスナ・グラ修道院で初めて壮厳ミサを捧げた。ここには「ヤスナ・グラの聖母」と呼ばれる聖画(イコン)があり、ポーランドの守護聖人として崇敬を受けている。以後、ヴィシンスキーはルブリンで4年を過ごして、1929年にルブリン・カトリック大学で神学と教会法、社会科学分野で博士学位を受けた。大学卒業後数年間、ヨーロッパ全域を旅行しながらさらに勉学を重ねた。 ポーランドに戻ったヴィシンスキーは、ヴウォツワヴェク神学校の教授として登用された。1939年、第二次世界大戦が勃発してヴィシンスキーは労働階層のための司牧をしたという理由でドイツ人らの手配を受けると、すぐにヴウォツワヴェクを離れた。コザル司教の要請で彼はワルシャワ近隣のラスキに行った。1944年にワルシャワ暴動が起きると、すぐにヴィシンスキーは「ラドゥワン2世」という仮名を使って、ラスキにいる反乱軍病院とポーランドの地下抵抗組織のゾリボルシュ軍管区の従軍司祭となった。 ナチス・ドイツとの戦争が終結して1年後の1945年、ヴィシンスキーはヴウォツワヴェクに戻ってきた。そこで彼は破壊された神学校を復旧させる計画に着手し、後には神学校学長及びカトリック週間新聞の編集長になった。
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