司教・枢機卿時代とは? わかりやすく解説

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司教・枢機卿時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 22:58 UTC 版)

ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「司教・枢機卿時代」の解説

1972年ラッツィンガーハンス・ウルス・フォン・バルタザールアンリ・ドゥ・リュバックと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語発行されるほどカトリック神学世界において重要なものとなっている。 1977年にミュンヘン・フライジングの大司教任命された。このとき、彼が司教職モットーとして選んだ言葉は「ヨハネの第三の手紙」からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理協働者)であった同年パウロ6世によって枢機卿あげられたが、2005年コンクラーヴェにおいて、パウロ6世任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェ参加できたものはラッツィンガー含めてわずか3人だった。 1981年11月教皇ヨハネ・パウロ2世は、ラッツィンガー教理省(英語版)の長官任命した。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古く異端審問担当した組織である。1982年ミュンヘン大司教区離れ1993年司教枢機卿になり、1998年枢機卿団次席枢機卿2002年11月30日首席枢機卿任命された。歴代首席枢機卿オスティア名義司教であることが通例であるため、同時にオスティア司教位も受けたカトリック教会において是認されている教義異を唱える神学者に対して厳しく対処するなど、保守派代表格みなされていた。 しかし、第2バチカン公会議背を向けマルセル・ルフェーブル大司教などの運動には批判的であり、大司教バチカン許可なく司祭叙階ようとした際には、バチカン代表して直接面談し、「司教あくまでも分裂シスマ)の道を進むのであれば教会破門されるだろう」と「改め具体的に警告」して、伝統派牽制した。ルフェーブル大司教は、この警告無視して司祭叙階して、聖ピオ十世会称する独自組織創設した

※この「司教・枢機卿時代」の解説は、「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「司教・枢機卿時代」を含む「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事については、「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。

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