原田貞介とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 原田貞介の意味・解説 

原田貞介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:31 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
原田貞介

原田 貞介(はらだ ていすけ、慶応元年3月7日1865年4月2日[1][2] - 1937年昭和12年)9月30日[2])は、明治から大正時代の土木技術者内務技監工学博士

経歴・人物

原田精一の長男として周防国(現・山口県)に生まれ、1900年(明治33年)11月に家督を相続する[1]1883年(明治16年)旧東京大学理学部に入学するが、寄宿生一同のストライキに参加して1886年(明治19年)退学し、ドイツに自費留学する[3]。シャロッテンブルグ高等工芸学校に入学し、河海工学を修めて1891年(明治24年)卒業する[3]

翌年の1892年(明治25年)5月、内務省に入省し、土木監督署技師、1898年(明治31年)第4区(名古屋)土木監督署長、1905年(明治38年)名古屋土木出張所長、1911年(明治44年)下関土木出張所長を経て、1918年(大正7年)内務技監となり、1924年(大正13年)退官した[1][2]。ほか、朝鮮総督府土木顧問[3]、港湾調査会委員、臨時治水調査会委員、帝都復興院参与、土木学会第8代会長など要職を歴任した[2]1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]

任官中、中国へ渡り漢口の護岸工事などを指導[2]。また、沖野忠雄と共に明治改修に尽力した[5]

栄典

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 人事興信所 1915, は36頁.
  2. ^ a b c d e 公益社団法人 土木学会 歴代会長紹介、2019年6月5日閲覧。
  3. ^ a b c 高橋、藤井 2013, 72頁.
  4. ^ 『官報』第1725号、昭和7年9月28日。
  5. ^ 歴史が語る、治水の変遷│32号 治水家の統(すべ):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター、2019年6月5日閲覧。
  6. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「原田貞介」の関連用語

原田貞介のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



原田貞介のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの原田貞介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS