卯吉の殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 10:23 UTC 版)
『藤岡屋日記』に拠れば、卯吉の殺害に至る事の発端は卯吉の子分祐天仙之助と博徒吉原亀との抗争で、吉原亀は卯吉の計略により甲州を追われていたが、祐天との抗争に敗北し惨殺されたという。その後、亀の子分・波之助が敵討のため祐天の殺害を企図するが当時祐天は消息不明であり、代わりに親分である卯吉の殺害を計画したとされる。また、『東海遊侠伝』に拠れば祐天は駿河の清水次郎長の妻初代お蝶の兄にあたる江尻大熊とも抗争しており、祐天は大熊の子分を殺害し、大熊はその報復として卯吉を殺害したという。こうした経緯から卯吉の殺害犯は卯吉と敵対する博徒らの連合部隊によるものであった可能性が考えられている。 卯吉の死を受け、すぐに卯吉の子分を含む26名から成る一団が、仇である亀吉一党を求めて東海道へ入り、遠州まで探索に及んだことが江川文庫所蔵の古文書に記録されている。一団は甲府勤番の「添書」を持参しており、このことから甲府勤番が、博徒を公の捕方として派遣し、卯吉殺害の下手人探索をしていたことがうかがい知られる。これにより、甲斐・東海地方では博徒に対する取り締まりが強化され、駿河では清水次郎長が影響を受けている。次郎長はこの難を避けるために、妻を伴って名古屋へ逃走した。 『藤岡屋日記』に拠れば、卯吉の子分祐天仙之助は卯吉の殺害犯の一人である波之助を殺害し、卯吉の勢力を継承するが、その後甲斐における博徒取締が強化されたことから甲斐を離れる。以後、甲斐における博徒間の抗争は卯吉の子分国分三蔵と竹居安五郎・黒駒勝蔵との対立を主軸に展開される。 ウィキソースに敵討瓦版の原文があります。
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