もう一人の「勝蔵」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 05:28 UTC 版)
『坂田家御用日記』に拠れば、安政4年(1857年)正月に甲府で竹居安五郎・黒駒勝蔵と敵対する三井卯吉が対立する博徒の連合部隊によって殺害される事件が起こり、卯吉の殺害犯の一人に和泉村(南アルプス市和泉)の無宿「勝蔵」がいるが、これは黒駒勝蔵とは別人であると判断されている。 また、八代郡夏目原村(御坂町夏目原)の河野家資料には「口上」と題された、年未詳「寅ノ極月廿六日」の日付を持つ上黒駒ノ正覚院宛て、同村売主「勝蔵」の書簡がある。内容は「身代金ノ義」。 「口上」は「舌代」「口演」とともに近世期の山梨県地域文書で多く確認されるもので、「一寸」の語が多用され本来口頭で伝えるべき簡易的な内容を文書で伝えた性格のものであると考えられている。髙橋修はこれを「一寸状(ちょっとじょう)」と定義し、一寸状が頻繁にやりとりされる半径5 - 6キロメートル程度の範囲を「一寸状圏」と定義している。 河野家資料「口上」に記される「上黒駒ノ勝蔵」が黒駒勝蔵と同一人物であるかは慎重視されているが、夏目原村は上黒駒村から「一寸状圏」の範囲内であり、さらに竹居安五郎の竹居村、黒駒勝蔵子分の綱五郎の塩田村(笛吹市一宮町塩田)も「一寸状圏」に含まれる点から、一寸状の分析は勝蔵など博徒の活動を考察する上でも注目されている。
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