もう一つの海外視察団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 14:01 UTC 版)
明治新政府が全国の15大藩に命じて欧米視察させた第1回欧米視察団は、安政条約の改定をめざして半年後に出発した政府首脳からなる岩倉使節団の影に隠れて一般には知られていない。岡山藩からは大参事・香川忠武と大属・津田弘道が選ばれ、随員を除いて総勢18名の視察団は、明治4年5月6日(1871年6月23日)に当時世界最大級の木造蒸気船「アメリカ号」で横浜を出帆、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、プロイセン、トルコ、エジプト、香港、上海、長崎、神戸を経て明治5年1月29日(1872年3月8日)横浜に帰還した。 一行がベルリン滞在中に「廃藩置県」の報が入り、半数は急遽帰国したが、弘道は予定通り旅行を続けた。米国では鉱山の採鉱・製錬と陪審制度に興味を持って視察し、詳しい旅行記・書簡を残している。この海外視察が津田弘道の大きな転機となった。
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