南北朝時代・室町時代の武田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:33 UTC 版)
「武田氏」の記事における「南北朝時代・室町時代の武田氏」の解説
その後南北朝時代には安芸守護であった信時流武田氏の武田信武が、北朝・足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、観応年間には南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。信武の子孫の信成・信春も甲斐守護を継承したと見られている。 信武の子の代で武田氏惣領家は3家に分かれた。甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家がそれである。 甲斐国は鎌倉府の管轄であったが、室町時代の応永23年(1416年)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生する。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承しており、信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。 これにより甲斐は守護不在状態となり、甲斐国人である逸見氏が鎌倉公方・足利持氏の支持を得て守護職を求め台頭した。一方、室町幕府では高野山で出家した信満の弟である武田信元を還俗させ、信濃守護・小笠原氏などに助力させ甲斐へ派遣する。第6代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信元の死後に信満の子の武田信重が同じく幕府の支援を受け甲斐へ派遣されると、結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。
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