北魏均田制
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439年、北魏が華北を統一する。当時は豪族が経営する広大な荘園が存在しており、その中に多数の農民が囲い込まれていた。均田制はこれと並立したが、当初の均田制は兵役と密接に結びいた軍事制度の側面が主で田制の側面は従である。 馮太后の摂政の元に均田制に前後して484年(太和八年)6月に俸禄制が発布。翌485年(太和九年)10月、李安世の上奏を受けて均田制が発布、更に翌486年(太和十年)2月には三長制が施行されている。 それまでの北魏官僚には俸禄が無く、官僚は勝手に民衆から取り立てて自らの収入としていた。俸禄を与えそれを禁じたのが俸禄制である。三長制は五家を一隣、五隣を一里、五里を一党と言う単位に民衆を組織する制度である。俸禄制は地方の綱紀粛正により、均田制の円滑な実施を求めるものであり、三長制は豪族が囲い込む農民の再編と隠匿する戸口を摘発して国家の支配下に置き、均田制の礎とするものである。 北魏に於ける均田制の具体的な内容を述べると 15歳以上の男性を男夫とし、これに露田80畝(正田40畝・倍田40畝、約3.7ヘクタール)と桑田20畝(約0.93ヘクタール)ないし麻田10畝(約0.46ヘクタール)を与える。 既婚女性を夫人とし、これに正田20畝、倍田20畝、麻田5畝を与える。 奴婢は良民(奴婢でない)に準ずる。 耕牛に正田30畝・倍田30畝を与える。但し4年まで。 園宅地として良人3人に1畝、奴婢5人に1畝が与えられる。 露田とは木が植えられない裸の田という意味で穀物を栽培する。桑が栽培できる土地には桑田を桑が出来ない土地は麻田がそれぞれ給付される。倍田とは連作防止のためのものである。 この内、桑田と園宅地は世襲が認められ、ある程度自由に処分することが認められた。一方で世襲により桑田を多く持つ者は余剰分を倍田の替わりとして充てられる。露田と麻田は男夫は死ぬか、70になった時に返還する。夫人の場合は明確ではないが、夫が死んだり、離縁したりして夫人でなくなった場合には返還する。それぞれ後代の口分田と永業田の元となったと考えられる。 奴婢や牛に対する給付はその所有者が受け取ることになる。これは大土地所有をある程度認めたものと考えられるが、これは初期均田制が土地の均等な配分よりも労働力を余すことなく活用することに主眼が置かれていたためと考えられる。 そしてこの支給に対する収税が均賦制であり、夫婦に対して租が粟2石(79.2リットル)、調帛1匹(27.9メートル)、麻布の場合には布1匹が課せられる。未婚の男性はこの四分の一、奴婢には八分の一、牛に対しては二十分の一がかけられる。
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